赤だし

  • 2017.08.21 Monday
  • 08:50




赤だしとは八丁味噌のお味噌汁のことだが私の初八丁味噌は小学四年の時だった。当時実家は飲食店で昼間は喫茶店のような感じだった。幾種類かの軽食メニューがあり、メニューには「ランチタイム赤だし付き」とあり、営業職のサラリーマンや土建屋のおっさんたちがランチタイムには赤だしを普通に注文していた。



母の赤だしにはこだわりがあった。出汁は業務用の鯖節と鰹節で強めに取った。具は微塵切りにしたアサツキのみで、それがサラリーマンや作業員たちがフォークやスプーンでパスタやカレーを食べる合間に楽に赤だしをずずっと啜れるようにという配慮であったのか、そうしなければ赤字になってしまうからなのかは今となってはわからない。




当時の私たち一家は他府県から転入であった。それまでの母の家庭料理に赤だしなどというスープは存在しない。色の濃い、豆の風味の塩辛い味噌汁。ランチタイムを過ぎ、赤だしが残る。それが私たち子どもの夕ご飯となった。寸胴の底に残った赤だし。初めて食べた赤だしのあの時のあの味を今も忘れずに覚えている。




飲食店のサービスとは何だろう。母は自分の食べたいものではなくおっさんたちの好みを優先した。珈琲とピラフ、ミートスパゲッティー、カレーライスにミックスサンド。じゃあ俺も赤だしね。おっさんたちの笑顔。ランチタイムは赤だし付きなんである。

イリーガル

  • 2017.08.20 Sunday
  • 06:39



バスの中や病院の待合でちょい読みをしていた奥野修司著「ナツコ 沖縄密貿易の女王」がようやく半分くらいまで進んだ。若くして亡くなった彼女の半生を美化したくない。あくまでも彼女はイリーガル(違法)な取引で金を儲けたのだ。



彼女は既に死んでいていない。そして彼女を知る人々は恐ろしく高齢な上その違法な日々について赤の他人に語ることを皆等しく恐れているのだが彼女が移動中に出会う幾人もの孤児をけして放っておかなかったという証言は多い。「善意なんかじゃない、あれは子どもらを金で買って労働させてたんだよ」。そんなキツい言葉も著者は書いている。




戦争後の荒れ野原の沖縄では子どもらは靴などは履かず、素足でとてつもない危険極まりない重労働をせざるを得なかった。そんな現場の子どもをナツコは軽々と買い上げ、家に上げ、ご飯を食べさせ、靴を与えた。疎開した台湾でコンテナいっぱいの砂糖袋の中に中国人に扮装した2人の男たちを匿ったことがあった。そのときナツコは線路脇で泣きじゃくる孤児の女の子をひょいと片手に抱え上げ我が子とともに荷物の隙間に押し込んだ。ナツコの子どもたちは言う。「母ちゃんはホントに優しい人だったよ」。

信楽焼き

  • 2017.08.15 Tuesday
  • 04:50




初夏だった。次女が結婚をして家を出た。昨日夏期休暇の夫と次女の新居を訪ねた。大人になった娘に手料理を振舞われることの幸せ。私は上げ膳据え膳のお客さんだ。昼食後夫の運転で甲賀市信楽町へ行くことになりネットでなんやかんや検索。目当てにしていた信楽陶芸の森は月曜休業である。私は信楽観光協会へ電話を入れる。当方本日信楽町を巡るつもりである、信楽焼きの窯元の夏期休暇について教えて頂きたい。ママは何者なの?娘が笑う。見知らぬ町で困ったときは電話で訊く。これが1番なのである。




里山を貫く国道307号線をひたすら走りようやく信楽町、思っていたよりもショップはお盆で閉まっていた。あっ、あった。大きく平仮名で「うつわ」と書かれた看板。あとでわかったことだけどそこは業務用食器のお店だった。狭い店内には所狭しと陶器が積まれていた。やはり信楽は焼き締めが主流。次女と2人ぼんやり店内を眺めていたら店主らしき男性が話し掛けてきた。




これ、持ってみて。男性は信楽焼きのタンブラーを次女の掌にポンと乗せた。はい、次はこっちね。男性は今度は違うカタチのタンブラーを次女の空いている方の掌に。どう、どっちがほっこり?こっち?次女が笑顔で即答すると男性は今度は信楽焼きの皿を持ってきた。これはこうやって使う、どう。ねえここの陶器はみんなおじさんが焼いたの?私が尋ねると男性は俺はデザインしてるだけさと言い私と次女を奥へと手招きした。




座敷。靴を脱いで上がる。男性は正座した。私も向き合い正座した。さてさてこのデザインのプレートがテーブルでどんな風に料理を引き立てるか。男性の口上が始まった。それがなんとも言えず良かったのだ。しかしお値段はなんと皿一枚が三千八百円。どう、高いと思う?うん高いよ。じゃあこれならば半額の千六百円だ。男性はささっと別の皿を出した。なんで?なんでこれは安いの?




これさー、子どもが焼いたの、失敗作だよ。何処が失敗なの?ここ、このへりのところ、ダメだよこれじゃー。全然わかんない、なんでダメなの?私が食い下がると男性は使えばわかるよと繰り返し、これは使えないんだなあとぼやいている。私は使えないとされた皿を手に取り眺めた。




私これがいい、これ頂戴この失敗作まだある?すると男性は不服そうにもう1枚同じものを何処かから出してきて私はお会計をした。




お客さん何処から?愛知県だよ。俺愛知県なら住んでたことがあるよ。何処?瀬戸だよ。瀬戸?私の知り合いが瀬戸の赤津ってところで陶芸家をやってるのよ。へー赤津かあ、俺は瀬戸駅の近くで瀬戸物の勉強してたんだよ、瀬戸懐かしいなあ。おじさん、あたしまたここへ来るね!今日会ったばかりの怪しげな親父とすっかり打ち解ける母親。ママ何者なの。

素潜り

  • 2017.08.13 Sunday
  • 04:45





昨晩三女のコーギーはじめてのお泊まり。リビングに寝袋を持ち込んでイヌと眠る。10キロを超える図体をしているがまだ仔犬。仔犬はわたしを朝晩の散歩のおばさんと認識している。散歩終わりは毎回15分体を拭いたりブラッシングしたり。わたしは鹿肉チップ(おやつです)をふんだんに御褒美で与えている。おやつ効果。仔犬とわたしは親密である。



アギヤー漁は糸満発祥と言われる。詳しくは知らない。離島では今でも見ることが出来るという。かつてこの糸満の漁法は画期的であった。何人もの素潜りの男たちが珊瑚礁の海中を自在に往き来して網を仕掛け魚を根こそぎ捕らえるそうだ。漁師たちは漁場を求めて一族で奄美諸島などに移住したという。今でも徳之島では漁師のことを「イトマン」と言うそうだ。




漁は博打のようなものだとわたしは思う。魚釣りの好きな友人は大漁を自慢する。アギヤー漁が廃れた要因は後継者不足だ。アギヤーの漁師は自分の子にアギヤーを受け継がせることをしなかった。素潜りでやがては聴力を失うこと、アギヤー漁そのものが危険と隣り合わせ、辛く厳しい漁法であること。



昨晩も私はyoutubeでアギヤー漁の動画を見た。仔犬を懐に抱いてである。

須藤利一

  • 2017.08.12 Saturday
  • 04:08



須藤利一(りいち)(1901〜1975)「南海覚書」は1944年の本だった。書庫から出て来たのがとてつもない古書だったのでこれホントにお持ち帰り出来ます?とカウンターで尋ねてしまう。須藤利一は台湾の台北市で高校教師をしていた人。敗戦の日まで台湾には日本人が多く住んでいたようである。




須藤利一は基隆(台湾の港)から沖縄へと船で出掛けている。当時八重山列島を探検する学者たちにはそのルートが普通だったみたいだ。夕方石炭を運ぶ小さな船に乗せてもらう。朝には西表島に着いている。西表島を出て石垣島へ。石垣には岩崎卓爾(1869〜1937)という学者仲間がいた。




岩崎卓爾は仙台のお武家の出身。札幌で勤務後30歳で石垣島へ転勤した。石垣で30年以上気象予報士として暮らしたけれど仙台訛りがなかなか取れなかったこと。気象予報士って言ったって石垣の人たちには偽預言者みたいなものだったから何があったのかは詳しくわからないけれどwikiによると地元の人たちにこの嘘つきめ、と縄で吊し上げられたりしたこと。




岩崎卓爾は遥々船でやって来た年下の須藤利一に田代安定(あんてい)(1857〜1928)との記念写真を自慢気に見せる。田代安定って?とにかく調べる。田代安定は薩摩の人。内務省やロシアで外交官のような仕事もしているから公家か公爵か。しかし肩書きは冒険家である。須藤利一が岩崎卓爾に田代安定との記念写真を見せてもらい大人気なくはしゃいでいるのがいい。



須藤利一は笹森儀助(1845〜1915)への憧れを語る。笹森儀助は私ももうそろそろ読まねばなるまいと考えていたところである。笹森儀助の父親は青森県弘前藩士。笹森儀助の肩書きは‥‥探検家‥‥。ええと気象予報士と冒険家と探検家‥‥。よっしゃ。はいこれ試験に出るよ。

内国勧業博覧会

  • 2017.08.10 Thursday
  • 16:04




このなかに内国勧業博覧会に上京した者は居るか。沖縄本島巡察旅行中、東風平(こちんだ)村に着いた茂憲(もちのり)は地元役人にそんなことを尋ねた。内国勧業博覧会というのは明治10年夏に上野で開催された第一回内国勧業博覧会のことで、東風平村は黒糖を出品し見事賞状を頂いた。質問に答えたのは地頭代神谷忠蔵。殿様を相手にかつ又通訳を頼りにしてのやり取り。しかし神谷は当たり障りのない答え方をした他の村役人とは違っていた。誤魔化しのないきっぱりした返答を返したのだ。





薩摩藩時代からの厳しい人頭税による生活苦。どういう仕組みなのかいまいちわからないがどの村も借金の利息を払うため、耕地をサトウキビ栽培に充てていて、人々は食べるモノが無くソテツを食べて凌いでいる。きっとこれは嘘なんだよ、食べ物はきっと有ったろう。私は読みながらそんなことを思った。遠く北国からやってきた、言葉の通じない殿様相手に、賢い沖縄の人たちが本気で遣り取りするわけがない。残されているのは公文書なのだ。形式的な遣り取りのみが記載されているに違いない。





しかし私は東風平村での茂憲と地頭代神谷との遣り取りを読むうちに、もしかしてこの遣り取りは真実かもと思い始めた。神谷地頭代は訴えた。ええわたくしは行ってまいりました。しかし殿様、ここは南国、気候も地質も内地とはまるで違います。‥‥わたくしは'木綿'はイケそうだったから種を持ち帰りました。‥‥'大根'はとても珍しいと思い種を持ち帰りました。




茂憲が神谷に言う。貴方はあの'稲まき機'は見なかったのか。神谷が答える。見ましたとも、あれは便利そうだったけれど殿様、沖縄の土であれはきっと使えないですよ。茂憲は言葉をさらに重ねる。貴方はそれを実際に使ってみた訳ではないでしょう、何故試さないのか、今から使い方を習う気持ちはありませんか。



そんなくだりを読んでいるうちに私はふと北海道八雲町開拓民、幼年舎第一期生大島鍛(きとう)のことを思い出すのだった。明治19年、鍛は17歳で札幌大学農芸伝習科でジャガイモ栽培研究という未踏の世界の扉をギギーっと押したのである。



茂憲は出来たばかりの東風平小学校の生徒たち12人に簡単な試験を受けさせ、よく出来た子ども5人にご褒美を上げたりした。そしてその晩は村の人々と酒宴にて大騒ぎ。茂憲と義親(よしちか)。いやいや、重なってしまうな。徳川義親の北海道視察旅行は深い森をかき分けての道無き道を馬で往く旅、茂憲も又ぬかるんだジャングルや海路を果敢に進む過酷な旅である。





「明治14年には冒険と言ってよい」と高橋義夫は中公新書「沖縄の殿様」の中でこの視察旅行について書いている。いいぞ茂憲。それから通訳の人もね。あと誰だっけ、お付きの人。何処かの村に褌(ふんどし)を忘れてきちゃってわざわざ旅先に律儀に届けて貰っちゃった人。君カッコ悪かったね、と茂憲に笑われちゃった。だって元武士だもんな。きっとスカして気取ってた。茂憲も人が悪いな。

不安

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 05:46



知らない人の家にいて、夜電気点けたくてもスイッチの場所がわからなくて、とりあえず暗闇の中どうしてもトイレに行きたくて、こう階段を一段一段恐々降りてゆく、そんな風に歌ってる。昨日声楽レッスン。けして悪くないんだけれど。声楽教師が私の歌を評価した。うーん。よう言ったわ、唸るしかないわ。


もうずっと心身の緊張が抜けない。そういうことが歌にも現れる。わたしが仔犬のように弱っていると声楽教師が言った。自分の家の階段を降りるみたいに歌えばいいんだよ。慣れた階段だよ、目をつぶってても手放しでもひょいひょいと行けるっしょ。うーん。なるほどね、アンタいつも例えが上手いわ。



夏バテ。力が出ない。だから集中が緊張なんである。ほれ!下顎脱力!上の奥歯の空間!仔犬の私は従順なんである。

39

  • 2017.08.06 Sunday
  • 03:28




昨日診察でのこと、ネトフリ(Netflixのことです)で堤真一の「39」という多重人格を扱った映画を観たという話をした。39とは刑法39条。かつて残虐な犯罪の犯人が精神鑑定で多重人格となると責任能力無しで無罪放免とされることがあった。そんな話だ。他のDIDさんのことはわからない。私はいろいろなことを考えてしまったのだ。



深刻な記憶の欠落の経験は私にはただただ単純な恐怖体験だった。高校時代自分は軍隊か修道院に入らねばならないと考えた。このまま社会に出て一般企業に就職するなどというごく普通の将来を描くことなどは全くなかった。




精神科で診断されたわけでもなく、只自分が制御不能な怪物であること、いつかは重大な犯罪を犯すだろうこと、そしてその日に刑務所に入らねばならないであろうこと。それが私の心の現実だった。




映画の中で精神科医が言った言葉。「刑法39条で多重人格者を責任能力無しとすることは多重人格者から人権を剥奪することになるのです」。これはなかなかわかりにくいことなのかもしれない。そもそも人権てなんだ。法律を論じるつもりはない。刑務所は犯罪者を厳しく罰して懲らしめ、犯罪者に重罪有りを知らしめることは犯罪抑止力となるがDIDとして一介の主婦として外見は何の変哲も無い日常を過ごしているかのように見える今でも私は考えずには居られない。




私は善良な人間に成りたい。誰かを酷く困らせた罪滅ぼしを出来ない代わりに今後は少しはまともな人間に成りたい。社会の役に立つ人間として更生を諦めたくない。貴女は病気なのだから無罪だと言われて喜ぶ心は私には無かった。元より失われて困る社会的立場などないうんと若いころの話だけれど。



幻聴や幻覚に錯乱して木刀を持って外へ飛び出した叔父が精神病院に収監された。叔父は精神病院での生活が安心だとお見舞いの私に笑顔で語った。長い刑期を終えた別の叔父は俺を死刑にしてくれと嘆きつつ割腹自殺をした。精神病患者の人生とは只死にゆくか生きて迷惑をかけ続けるかの二択なのだと。その頃の私はそんな細くて長い板の上をびくびく渡るような日々をすごしていた。

受診日誌

  • 2017.08.05 Saturday
  • 02:58




診察日。書き始めた小説の話をした。書き始めたと言ってもまだ一文字も書いてはいない。小説は脳で書く。脳内で映画を撮るようにお話の場面を描いてゆく。こんな場面、それからこんな場面。最後はこんな風にね。そんな説明をした。わかりにくいかな。いやそうでもない。いつも通り主治医は無表情。いつも通りが良い。色々話してあっという間1時間が過ぎる。薬のオーダー。それから次回診予約をして診察室を出た。



病院へ行った日に時折長い夢を見る。夕べは羽根布団がひとりでに宙を舞う夢。キアヌ・リーブスと話す夢。だけど夢の中の私の主治医は学会へ行っていて電話に出てはくれなかった。寂しく受話器を置く。iphoneではなく黒電話である。黒電話とはなんと懐かしい。

彩雲

  • 2017.08.03 Thursday
  • 03:54



毎朝の犬の散歩。夜明け前の舗道を小一時間ほど。稜線を眺めながら犬と伴に走る。まだ仔犬。頻繁に立ち止まる。月見草の黄色い花。蝉の抜け殻。東海自然歩道の入り口にある舗装されていない駐車場でひと休み。空がみるみる明るくなる。私と犬は光を見る。彩られた曇り空の下、朝が来るのを待っている。




selected entries

archives

recent comment

profile

search this site.

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM