ブログの移転のお知らせ

  • 2020.03.19 Thursday
  • 23:13

https://fridayusao.hatenablog.com/

移転というか統合します。

ヤマブキソウ

  • 2020.03.19 Thursday
  • 02:39

バラ科のヤマブキの花弁は5枚、ヤマブキソウは4枚。ヤマブキソウはクサノオウ属で葉や茎から黄色いアルカロイドを含む毒汁を出す。ヤマブキソウは雑草。黄色の花がヤマブキを連想させる

大場秀章「道端植物園」

  • 2020.03.18 Wednesday
  • 02:21

ヨモギは江戸時代は野菜だった。イタドリは日本発祥の雑草、イギリスで帰化してめちゃくちゃ増えている。月見草の開花のスターターは明るさ。曇った夕方は若干開花が速くなる。

手紙

  • 2020.03.14 Saturday
  • 23:22

手紙を書く。宛名を書き切手を貼った封筒を作る。切手はコンビニで買う。前略草々。

フェア

  • 2020.03.06 Friday
  • 00:38

英国船に囚われた五代友厚が英語で言った。私は戦闘員ではない。19世紀当時、戦争は戦闘員同士が戦うものであり民間人を残虐に殺すことが勝つことではなかったんである。コードネームアンクルでナポレオンソロも言った。素手で戦っている相手に銃を向けることは出来ないと。

和睦

  • 2020.03.02 Monday
  • 21:27

国と国とのいさかいの和睦は難しい。薩英戦争ののち和睦の話し合いは横浜で。都合三回日本国と英国の代表は顔を突き合わせたが決裂に終わった。薩英戦争自体一体どちらが勝ったのの体面も双方がたもちたい。亡くなった人の総数は英国が数人多かったけれど薩摩の火災被害も大きかった。ユーリアラス号の副船長の死因は英国製アームストロング砲の暴発であったという事実も悲しい。英国は戦争前に幕府から賠償金を多く貰ったというのに何故海路鹿児島まで出かけたのだろうか。英国が薩摩の独立主権を買いかぶり生麦事件の譲歩を条件に有利に貿易交渉をするつもりであったのかもしれない。しかしながら日本刀を振り回す血の気の多い侍たちへの慄(おのの)きから上陸を躊躇った。薩摩と琉球(たまたま停泊中だった)の帆船を拿捕したがそれもこれも'薩摩の'スイカ売り作戦'などという猿芝居にまんまと騙されてしまった。薩摩の男たちは本当に勇気がある。言葉の通じない高貴な英国人たちと対等なやり合うべく、貴族に似た風貌をした町田なにがしとやらを先頭にこれまたひと芝居を打った。和睦の決裂する中、薩摩の一陣は英国へ直接交渉へ行きたいと再三申し出ているが薩摩には当時の日本国の現状を英国国王に直訴すれば必ず和解出来るという自信があった。ほんとうに熱い。もろもろ通訳をしたアーネストはこの一件で上司に昇級を願いでている。よほどの酷務であったんだと思う。Wikiによればアーネストはこれをきっかけに何人かの薩摩人と親交を深めたなどと呑気な記述があるがいやいやいや、アーネスト、それから医者ウィリスは心底キツい日日を過ごしていたと思うよ。

アーガス号

  • 2020.03.02 Monday
  • 03:51

奇しくも薩英戦争は台風の到来と共に勃発した。重苦しい雨が降っていた。アーネストの日記はそんな風に始まる。薩英戦争でアーネストはウィリスと共にアーガス号に乗船していた。アーガス号は数発の砲弾を受けたもののダメージは少なかった。弾薬部屋を生麦事件の賠償金のドル箱がふさいでおり、それをどかすのに2時間掛かったとアーネストは日記に記している。

蟠龍丸(ばんりゅうまる)

  • 2020.02.29 Saturday
  • 21:48

朝日文庫、萩原延壽(はぎはらのぶとし)「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2」を読んでいる。蟠龍丸(ばんりゅうまる)は英国船団を追いかけ一路鹿児島へと出帆したがその航海にいつもの倍の日数がかかり薩英戦争を食い止めることは出来なかった。著者は当時の記録を詳細に検討し、そもそも蟠龍丸が追いつくことなどあり得なかっただろうと書いている。幕府と島津、そして島津と英国にはそれぞれにおもわくがありあざといやりとりがあったなど歴史本で暴露される節があるが著者はそう断言出来ないと書いてもいる。そもそも英国が島津三郎の命を要求したとされる三か条はオランダ人による幕府の通達状の翻訳の誤りであったし、五代ら薩摩藩の要人が英国船団により横浜まで輸送された経緯からも切羽詰まった戦争の空気は感じられない。しかしながら英国船団は9名の戦死者を出したし、英国の砲撃により鹿児島の町は大火事を出した。民間人の集落を焼き払った英国船団のやり方をタイムズ紙は大々的に批判したが先に大砲を打ってきたのは薩摩であった。先の見えない日々。アーネストは毎日短いながらも日記を書き続けた。

波の間に間に漂うこと

  • 2020.02.13 Thursday
  • 10:25

そのときに補水等にフランクリン号が寄港した港はチモル島カウバンとあるがこれはティモール島のクーパンだということが現在判明している。2016年秋に外務省外交史料館に於いて「幕末へのいざない」展示なるものがあり幕末維新期の洋式捕鯨についての論文を発見。ジョン万次郎論文は思っていたより多い。1747年当時ティモール島のクーパンはオランダによる侵略に悩まされていた。インドネシアの歴史を読む度不思議に思うのはポルトガルという国とオランダという国の相違である。ホントかな、なんでかな、と思いつつもなんにせよ要するに植民地の取り合い。クーパン港は良港だったのでどの国も欲しかったみたいだ。万次郎は何を見ただろう。さまざまな言語が乱れ飛ぶ港の喧騒。潮の流れが引き寄せた入り江でごたついている人々の貪欲。負けるな万次郎。別に負けてなんかない?そっか笑。

波の間に間に漂うこと

  • 2020.02.13 Thursday
  • 10:07

フランクリン号は大西洋を東へ突っ切ってアフリカの南端をぐるり印度(インド)洋を通過、濠洲(オーストラリア)、爪哇(ジャワ)島辺りで漁をしていた。アメリカを出て既に7ヶ月が経過していた。(ちなみにジャワと入力するとこの見たこともない爪という字の熟語に変換します。だからこの漢字の読み方はジャワなんでしょうねー)。

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