紅絹

  • 2017.10.22 Sunday
  • 06:33






紅絹と書いて'もみ'と読む。数日前に時々のぞく中古着物店で面白い着物を見た。ほんのり青味の掛かった灰色地に白と青と紅と橙色で梅や竹などのお目出度い図案が描かれていた。タグを見る。大島。大島紬にもいろいろあるということを最近知ったがこういうものもあるのかとにわかには信じ難くお店のお姉さんを呼ぶ。




私より一回りは若い綺麗な女性。話し方はおよそ呉服には似合わない。私のする小学生並みの質問にも顔色ひとつ変えず的確な指摘をする。その日もオールバックにした髪をお団子にした彼女がこれも大島なのかという私にいつもの如く冷淡で突き刺さるような鋭い視線を向けた。



大正時代のものだというこの古着を私は購入した。着るんですか?という彼女に破れると嫌だから額にでも入れて飾ろうかなと冗談を返すとハッとしたような顔つきの彼女がこれは紅絹が付いていますと早口で言った。もみ?もみってなに?ここです。この紅い裏地です。




帰宅後紅絹を調べる。紅絹と書いて'もみ'と読むのは染色の際に紅花を揉んで色素を出した作業を指すこと。明治の後期にはすでに化学染料の紅絹が流通していたこと。当時白い布はむしろ上質の証しであり紅絹は洒脱な日常を象徴していたこと。




お姉さんの着物屋は今月で閉店。別れ際彼女が言った。わたしは片付けで閉店後3週間は毎日ここへ来ます、良かったら又訪ねて下さい。私は金離れの良い上客と思われたか、それとも聞き分けの良い着物生徒と見込まれたか。

感情

  • 2017.10.21 Saturday
  • 06:26




ヒトには感情があるということを意識した初めての出来事の記録。どうして他の人の気持ちがわからないのかと小学校の担任の教員が私を諭す。私は粗暴な子どもだった。私にとって、学校は、保健所や役所や警察署と変わらない。冷たく薄汚れた建物。私は学校が心底嫌だった。



私自身少なくとも感情はあった。嫌悪と失意。長く見ていたくはないもの。私に接するあらゆる人間たちが私のそれら「感情」と呼べる見るに忍びないがっかりな日常に寄り添ってくれることは皆無だったのだ。他人はおろか、私は自分の感情にすら目を背けていたのだ。




ヒトの気持ちがわからないのは如何してかと問うた教員が私に素朴な疑問を抱いていたわけではないことはもちろん肌で感じていた。教員の苛立ちと怒り。目の前の人間たちの発する「感情」に子どもの私が翻弄される。




19歳の初夏の頃。とあるデザイナーズブランドのTシャツがデパートのワゴンセールで半額になっていた。様々な色合い。様々な動き。淡い青、強い青。手描きの模様そのTシャツは半額でも4千円近くしたが私は財布の金をはたいてそのTシャツを買った。そして毎日着たものだった。美しいTシャツが嬉しかった。嬉しいという気持ち。




数日前の出来事。小さなホールで声楽リサイタルの最中にトランスに陥った私が幻の海辺で桟橋に寝そべって水の音を聴いていた。水の透明。夜の空の深淵。私はぐんと引き出された。護ってきたもの。漏れ出てしまわないようにぴっちり閉じ込めてきたもの。こんな私にも果たして感情はあった。

幻覚

  • 2017.10.19 Thursday
  • 16:58




黒い背広を着た男性がウミガメを積み上げる。ワニのように大きな1匹のトカゲがそれをじっと見ていた。公演中にも関わらず黒い背広の男性が暗い客席通路を行ったり来たり。




そこは朽ちた桟橋の上であった。私は腹這いになって波間に両腕をだらりとやって水の音を聴いていた。歌声。こきりこの竹は7寸5分じゃ。その歌声は遠く近く。




私は何故こんなにも幻覚を見るのだろう。私はこの先ちゃんと暮らしていけるのだろうか。幻覚はいつも私を不安にさせる。

大島紬

  • 2017.10.17 Tuesday
  • 04:20



沖縄本島の北にある与論島は沖縄県の地図を買っても載っていない。与論島は鹿児島県の最南端。与論島、沖永良部島、徳之島、そして奄美大島という感じに北上する。




奄美大島の北にはトカラ列島がある。トカラの有人島は7つ。口之島、中之島、諏訪之瀬(すわのせ)島、平(たいら)島、悪石島、子宝島、宝島。論文で読む口之島という重々しい響きに反して地図で見るトカラの島々は本当に小さくて可愛らしい。




鹿児島の南に種子島、屋久島というのがある。屋久島の左横に口永良部島という小さな島があり口永良部島はトカラ列島には含まれていない。(注:含まれるとする資料もあります)。口永良部島は江戸検地では184石。戦国時代からの困窮に喘ぐ島津海上貿易の拠点となった。本当だろうか。こんな小さな島が。読み間違いではないか。もっと時間を掛けてじっくりと読まねばならない。




口永良部島と口之島の間には北緯30度線というのがあって1946〜52年の6年間トカラ有人7島はアメリカ領となる。奄美諸島の日本最帰属は一年遅れの1953年。さらに1972年の沖縄日本最帰属までには1968年の小笠原諸島の返還があった。




地図であれば蛇腹を折り畳みするだけの線引きの記録である。だが住んでいる人々にはなにかと不都合も多くあったことだろう。当たり前のことだ。何処に住んでいたとしてもそこには生身の人間の暮らしがあるからである。大戦後の如何の斯うのでは私の祖父母らも同様である。内心では古き良き日本の風景が嫌いではなかったとしてもである。




もう過ぎたことである。昔のことなんである。サンフランシスコなんとか条約だとかはしばらくは忘れて過ごすことにしようと着付け自主トレの日々。和装の徒然に没頭していた。ところがある日私はヤフオクで落札した着物の小包の中に未使用の綺麗な着物を見つけた。それは虫眼鏡で見ないとわからないような極小のTの字が布いちめんに散らばった、つやつやとした白い着物であった。友人がこりゃ白大島じゃないかと言った。




こんな狭苦しい家ですが。私はその白い着物を衣紋かけに掛けた。大島というと奄美大島ですか。そうですか、遠いところから本当によくいらっしゃいました。私は再び地図を広げる。いつになるかはわからないけれど、もう一度、私は旅に出ようではないか。‥‥という、そういう訳なんです。

日曜日

  • 2017.10.16 Monday
  • 02:28




連日の猛暑の中で体力落ちたようです

蹴っ飛ばす余力もないんだよパイロン

ジメッとした夜ではない 寝過ごしちゃった朝でもない

ポカポカの日曜日がいちばん寂しい


(KAN「ポカポカの日曜日がいちばん寂しい」より)




台所収納にニトリで感じのいいカゴを買いたいという夫に促され日曜日の夕方に買い物へ出掛けた。長く家を留守にするたびに夫は台所設備の改善を考案する。私といえば若い頃からそれが段ボールでも平積みのゴタゴタでもまるで構わない。生い立ちが悪いせいなのか文化的な暮らしというものに関心がないんである。




店内で何を見てもそれが自分とは無関係に思えて一切興味がなかったが茶碗蒸し用の小さめのマグカップを4つ。娘たちがそれぞれの夫を連れてご飯を食べにきたりする時のために。そして3合用のご飯炊きの土鍋も買った。うちには1合用のご飯炊きの土鍋しかなくてとても不便だった。




装備のまるで整っていない台所では有るがやってきてご飯を食べる来客が時々居て近々沖縄の離島に行ってきた友人のお土産の限定泡盛を飲むための飲み会をすることになっていてそんな夜の献立を考えるのはとても愉しい。




夕方、夫とラーメンを食べた。あっさり塩味の野菜入りラーメンが思っていたよりも美味しくてなんだか泣きそうになった。それが日曜日のせいだったのか、ラーメンが美味しかったからなのか。KANさんのこの曲が一曲リピートでもうずっと脳内で流れていたんです。

ミュージシャン

  • 2017.10.14 Saturday
  • 22:07





Netflixで「ラブソング」というドラマを観た。福山雅治がミュージシャンで精神科医ということで、こんな精神科医やセラピストいたら逆に困るわと思いつつもつらつらと第3話まで一息に観た。少し前に「コウノトリ」という漫画を読んだがそういえばその漫画の産科医もジャズピアニストだった。意外と無さそうで有る事なのかも。




「ラブソング」は主人公を演じる女優さんの吃音の演技がものすごく上手いので驚いた。吃音は苦しいだろう。子ども時代、私は場面緘黙だった。初めの一音が出てこないことの辛いこと。今も忘れられない。




陽性転移陽性転移って軽々しく言わないで。主治医がいつか転移神経症ってこれが陽性でこれは陰性でとはっきり区別はつけられないと言ったことがある。かつて私は仕事で接する目上の人から貴女をみていると死んだ誰それを思い出して仕方ないと四六時中言われて参ったことがあった。さあはやく自殺せよという脳内の声に苦しんだものだ。あれは恐らく陰性転移だった。




さくらの福山への想いは陽性転移ではなく歴然とした恋心。しかし福山の内心は陽性転移で間違いない。死別した恋人の像をさくらに投影している。脚本もそれがまるで美しいことであるかのように描いていた。




もちろん親しい人との死別から来る罪悪感はたいへん苦しいものである。弱者に寄り添うことで罪悪感はいっとき和らぐだろう。楽になりたい。易きに流れる心をどうこう言う資格は私にはない。がそれにしても福山はサイテーだ。それでもセラピストのプロかね。




そこはミュージシャンだからですか。ミュージシャンならばそういうことも許されるんですか。そうではないとあの手この手で作品を作り続けては踏ん張るミュージシャンも居ますでしょう。年かさのセラピストが吃音の女の子を掌中にしてんですよ。なんかムカついてますます泣けたんです。



鋏痕

  • 2017.10.11 Wednesday
  • 06:30




娘の住む滋賀県まで電車移動。東海道線で草津まで行って南下することも出来たが関西本線で亀山、草津線と近江鉄道で行ってみることにした。名古屋駅のホームは13番線。40分くらい待った。亀山までの快速は1時間に1本しかなかった。



チョコを食べながら琉球処分についての論文を読む。処分という言葉の意味。物を片付ける、ゴタゴタを納める、処罰する。つまり1879年の琉球は明治政府より格下であったと。じっさいそうでなかったとしても処分とは書いたもの勝ち。なるほど。松田道之「琉球処分」喜捨場朝賢(きしゃばちょうけん)「琉球見聞録」の論考。それぞれの立場から当時の真実を検証なんである。




亀山行きの快速で1時間、亀山からJR草津線始発駅柘植まではワンマンカー。これまた1時間に1本だがここはちゃんと連絡しているので待たないで乗れた。亀山柘植間の関、加太、柘植の3駅を25分も掛かってコトコトと一両車両で進んだあとは柘植から草津線が飛ばす飛ばす。JR草津線は速いんである。




草津線の創業は明治22年。昔はここを蒸気機関車が走っていた。草津線は杣(そま)街道。杣街道の歴史はもっと古い。甲賀駅。こうかと読む。甲賀市をずっと「こうがし」と読んでいたが正しくは「こうかし」なのである。甲賀駅はかつての甲賀の中心地である甲賀町の入り口。




貴生川駅で草津線下車。近江鉄道に乗った。近江鉄道は私鉄である。近江鉄道も創業は明治。滋賀県では最古の私鉄である。おもちゃみたいなカラフルな車両に釘付け。窓口のおじさんに行き先を告げると出てきたのは硬券。紙切符なんである。おじさんが目の前でぱちんと改札鋏を入れる。(おじさんじゃなくて駅員だぞ〜)。




かつて鋏痕の無い未使用の切符にひどく惹かれたものだった。乗らなかった電車の切符。なんでそんなものが好きだったのか。なんでかなー。

むかしも今も

  • 2017.10.10 Tuesday
  • 03:54






山本周五郎の小説「むかしも今も」を読んでいる。好きな場面だけを拾い読みしたいのをぐっと堪えてこつこつ読む。ひとことひとこと噛み締めすすむ。なにかと我慢するならあとで良いことがあると考えるさもしい癖。結局それって芯はどん欲。読み終わるのが惜しいだけ。たかが本だって。




不幸な直吉。育ての母おふくは「堅太りの小さな軀(からだ)に団扇のような大きな手をしていて」家は貧しい。だから「ふかした薯(いも)とか」「なんの粉とも知れないものでこしらえた焼き団子とか」「菜とか大根ばかりの汁など」が半月あまりも続くらしいのだ。




うわー。食べたいー。(なんでやねん)

プレタ

  • 2017.10.09 Monday
  • 02:50

 

 

 

和装覚え書き。長襦袢に半襟をつけて着付けの一人稽古。毎日着ているとなるほど解ってくることも多い。着付けのポイントのひとつに襟を抜くというのがあるが正しい場所で襟が抜かれている時の姿勢は気持ちがいい。横隔膜が固定され肩は脱力。すっとして呼吸も楽なんである。ただしそのあと帯をごたごたと締めるうちにみるみる襟は着崩れてゆく。

 

 

そんな話を友人にした。だからさ!と普段穏やかな友人が切れ気味に返してきた(やり取りはすべてメールです)。わかっていた。衣紋を装着せよということなんである。衣紋、または衣紋抜き。長襦袢の背中心、ちょうど襟から指を開いた手幅ほど下りた場所に紐を縫いつけその紐を前で結ぶ。そうやって襟を抜いた状態を固定することなのである。

 

 

YouTubeの動画に「手を挙げないで出来る銀座結び」というのがあった。衣紋が崩れる原因は帯結びで上下する肩だった、ひとつ賢くなったと上機嫌で友人にがさがさ着付けの自撮りを送る。名古屋帯は銀座。銀座結びはネコ要らず。着物は黒地に桜と抹茶とアイボリーのちいさな花びらが散っているプレタを選んだ。

 

 

いつか友人が言った。素敵なお着物ですね、正絹ですかと知り合いが声をかけてきた時はプレタですと返すのがいい。プレタいい響き。さて衣紋抜きを付けるかね。そんなことを思っていたら様になってるじゃんと優しいメールが友人から帰ってきた。

 

 




 

沽酒の禁

  • 2017.10.08 Sunday
  • 05:13

 

 

みりんについてずっと考えている。最近和食を手習いしている。外国人向けに書かれた和食の料理本をベースに和える煮る焼く蒸すなどの和食の手法をこつこつやってみる。

 

 

韓国では魚や肉を煮汁で煮ることはない(注:私論です)。肉や魚を単体で仕上げる料理では、私は「ポカする」と言っていたが鍋かフライパンに醤油と砂糖、もしくは醤油を適量、そこに素材を並べいきなりうわっと加熱する。いつも強火とは限らない。加熱のスピードと調味料の浸透圧が拮抗する一回性のタイミングを捉える。

 

 

汁物は「クム」と言っていたが出汁の中で具をゆらゆら煮るということはしない。旨味のある素材を鍋でポカしてそこに水を注いで汁物である。牡蠣や干物などでもやる。チゲってのが有る。私の手法は重ね煮法である。焦げ付きを防ぐため底には大根や牛蒡やピーマンなどの固い野菜の薄切りを敷きその上に豆腐や肉を乗せ少しの塩気で加熱する。素材から出る水分を計算して調味料を加減する。子ども時代塩辛いものを作っての駄目出しもあったが回数をこなせばほとんど失敗しないものである。

 

 

というわけで私にはまるでパズルのような和食が新鮮で楽しい。調味料と出汁の黄金比さえ守れば失敗はないし下こしらえをしておけば生煮えということもない。

 

 

和食のいわゆる「おふくろの味」を網羅して御馳走部門。所々にみりんなるものが登場するわけである。みりんてなんだ。砂糖水では駄目なの?私は実験の要領で当初はみりんをいっさい使わずに様々な和食を作っては食べていた。一方でみりんについての文献を読みあさる。みりんの歴史は古い。みりんというのは甘い酒のことで灘の五大酒造が辛口の切れる酒を発明するまで日本酒一般は甘い酒だった。戦国時代加藤清正は九州の赤酒を好んで飲んだとある。古代酒赤酒は甘く雑味の多い酒でアマゾンで買うことが出来る。

 

 

さて沽酒の禁はウィキペディアにはないがお酒の歴史とかで検索するとざっくりと書かれている。鎌倉時代酒は既に経済効果のある商品として日本全国に流通していた。沽酒の禁は日本で初めての禁酒令。この禁酒令は間もなく解かれて政府の財源として欠かすことの出来ない酒税の性質を強めるものとなる。

 

 

1943年からの8年間、昭和18年から終戦を挟んでの一時期「みりん製造禁止令」が布告された。日本の統制経済は酒と米と塩であるがみりんも迫害を受けたことを知ってしばらく後、私は本みりんなるものを台所にお迎えした。買ったよ。みりんを。

 

 

みりんという甘い旨味のある酒がなぜ国家が取り締まらねばならないほど日本人の食生活に根ざしていたのか。昭和30年代みりんにはその価格の7割強の酒税が課せられた。みりんなんて要らないじゃん、とする国家に対してみりんなしで如何にして和食が造れようかと嘆いた板前たちのニーズに応えてかそうでもなかったかはわからないが塩みりん、みりん風調味料なるものたちが凛々しくも発明された歴史がよい。和食ヤッホーのいち外国人としてそんなことを考えたりしてますね。

 

 

 

 

 

selected entries

archives

recent comment

profile

search this site.