縁遠い伯父の名前が故郷(フルサト)だということを葬式の日に知った。故郷。力のある名前だが名前らしくない。何故なら故郷とは場所を指すものだからだ。
松本清張「半生の記」p99から彼は朝鮮の竜山というソウル近くの駐屯地へ出兵し、ニューギニア行き要員としての訓練が始まる。「滑り台のような高いところから砂地へ飛び降りる」訓練とある。輸送船が撃沈されたとき海に飛び込む訓練である。
兵舎と市街地は低い柵で区切られていた。柵のすぐ向こうを白衣の朝鮮人がのんびり歩いていた、とある。2年間を彼はそこで過ごした。衛生兵として見習い軍医士官の手紙を持って病院へ行った清張は、士官の書いた恋文を薬局の女へ届けたりする。士官は学徒兵でなかなかの美男子であるとある。
そののち彼は全羅北道の井邑(せいゆう)へ移動。飯炊き、食器洗い、洗濯などの雑事に追われる兵役を過ごした。敗戦を見越して竜山駐屯地近くの古本屋で手に入れた中学3年生くらいの英語の教科書で英語を学び始めたが、わからないところを教えてくれていた朝鮮人志願兵は反戦運動と独立運動をしていたということである日憲兵隊に拉致された。
そののち彼は軍医分に持ち込まれた分厚い植物図鑑の中の食用野草の謄写(紙を乗せ鉛筆でなぞって写す)の仕事に従事した。
朝鮮の海岸は孤立していた。街の上部は険しい峠で、あの峠を越せたらどこへ行けるのだろうかと思ったと書いている。夕方朝鮮の家々に灯りがつく。「こんなときがいちばん故郷を思わせた」。
So the elders of the congregation went off to a distant congregation, A few days later, they returned with one old doctor.The doctor's name was Roman.I let the elder and doctor named Roman through to the room where Tabitha was sleeping. Then I went with Joppa to the beach.I was thinking back to when I first came to this city.
Joppa had a big smile on her face.Hey, does Yoopa always keep quiet at home?" Yohoyada said.
'Yes, that's right! 'I smiled at Joppa.Immediately, Joppa's smile disappeared.
Joppa came to Tabita's house shortly before I came here. From that moment on, she never uttered a word, or even a cry.When she cries, she cries in a hushed voice.
When Tabita scolded her for a little prank,when she fell and scraped her knee.Joppa wept with the bitterness of a grieving adult in the last days of the world. I insisted on being Joppa's voice. Even when it was unwanted. .But it's meaning was misplaced.
One day Tabitha said to me. 'Thank you for coming to our home, Tabina.' At that moment, Joppa hugged Tabitha with a radiant expression on her face.. Even though we were not a real family,we lived like one.
Jehoiada was a fisherman until he became a service servant in the Joppa congregation.I and Joppa love to hear his stories of great catches.The hall, where the meeting had just ended, was filled with a lively buzz.
'My dad was worried about me.He was just asking "Are you okay? Are you okay?" over and over.There was a big wave that almost flipped us over in the night. I was dizzy because I hadn't slept a wink. I shoveled down breakfast. We hadn't been able to eat anything for 3 days. That's when it happened. Suddenly.A flock of swans landed right in front of me.'
"Get some melons in the tub of cold water under eaves at back door"
After eating them her fever went down.
"It's inevitable.Joppa loves the sea."
Tabita stroked Joppa's cheek gently.We had a simple dinner of fish and bread,And I put Joppa to bed.I helped Tabita with her sewing business.
I love these evenings spent with Tabita.Tabitha carefully draws a line on the cloth with a white pebble.She places the cloth on a cutting board and cuts it with a knife.I lit up her hand with a lamp.
When she sewed clothes, she looked as happy as if she were a little girl playing with her favorite toy.She looked happy. I was happy too.I had asked her about it shortly after I moved into Tabita's house.Tabita said.
"If you and Joppa are happy, I am happy."I must be a lot happier now than I was then.
I was lying on a long wooden board like a door board.Every time I vomited, the sand made a jarring sound with my back teeth.Vomiting was constant.I kept spitting up something salty.I wondered how long I had been here doing this.The smell of the sea rose from my damp hair and clothes exposed to the sun.I blacked out again.
"One salted mackerel and one loaf of bread, please.Yeah, the bread should be the old one over there."As I was about to pay, I let go of Joppa's little hand, and she walked off toward the surf.The man in the store urged me to follow, handing me a packet of bread and fish, and I began to walk after Joppa into the hot sun.
"I'm home, Tabita."
"Welcome back, Tabinha. You spent a lot of time shopping today.Were you playing on the beach with Joppa?
"Yes, It's already hot in the sun. It's making my head dizzy." I gulped down the well water I had left, pulled Joppa close and gave her a drink of the same well water.
"Oh, that's hot. She has a fever."
" Poor thing"Tabitha stopped sewing, picked up Joppa, and placed her cheek against Joqpa's cheek.
about anyone.I'll just sit back and wait to die.
Addiction to self-pity.Extreme habit of thinking zero or one hundred..I want to relax..quiet.my
blain.
I really rejoice myself.
Genesis 1:27 says
"God went on to creat the man in his imagne"
I delight in giving,being pity,trying to get close
to animals and people naturally.I value playing and having fun.I have a deep sensivity,I get hurt naturally.
I express myself freely.I want to grow.I have this true self that will never be lost.
不安や寂しさで自分を見失うような日に松本清張を読むことがある。最近夜眠る前は夜に聴くKpopというのを聴く。韓国語の歌は平ぺったくて良く伸びて健やか。
30年以上昔、ある人に教えてもらった松本清張のエッセイ。疲れた身体で通勤電車に揺られながら、ボロいメモ帳の余白に、ちびた鉛筆のちびた文字で、彼は小説を書き続けていた。そんな内容だった。
真っ白なスケッチブックにすー、と潔く線を引くようなことがどうしても今は無理に思える。脳内がギューギュー詰めに思える。深呼吸してもストレッチしても何も変わらないとき。
そんなときは静かに目を閉じてもう何も見ない何も聴かないことにするんだけどさ。
ノートの広さは脳の広さ、思案中。劇的な解決を求める癖。でもとにかくはじめないことには。再びのベトナム語。友人がスタバのアンケート付きのレシートをくれたのでアンケートに答えてドリンクをGET。トリプルラテを貰った。
シギリージャは投獄や死別や信仰心を歌っているとwikiにあった。純粋にロマが起源のトラディショナルフラメンコのワンジャンル。
もう何年も前になるけどブルガリアのロマの小説を読んだことがある。まもなくこの村にもロマがやってくるよ。ロマがあっちの川岸で野営をしていたんだよ。川で熊を洗ってたよ。フラメンコを見たらそんなことを思い出した。また読みたいな。ブルガリア。
いつものスープ&サラダを作る。キュウリサンドも作る。 酒まんじゅうを買ったがお酒の風味がしなかった。どうした世界のヤマザキ。いやまさか私の側の問題でしょうかねえ…。酒が足りてない?味覚鈍麻。
眠る前は読みかけの小笠原彗のDZを読む。買ったり売ったりしてるよねDZ。遺伝子異常。何回も読んだはずなのに忘れていた。主人公の動機はなんだ?ねえ、この人悪い人?もしグエンを悪く描くつもりならこっちにも考えがあるよ。私の愛するグエンなんだから。
立山とか何月くらいから近づけるんだろうね。だとしてもすっごい混んでんだろうね。友人が嘆いた。映画観て登ったつもりじゃ駄目かな?駄目だろうねえ、苦行が好きなわけじゃないけど。
]]>疲れているときはバラを調べる。35の時、生まれて初めて大学病院で余命宣告をされた日にバラ園を歩いた。なかなか死なない。その後何人もの医者から余命宣告をされたがあの医者たちが出鱈目だったのかそれとも私という人間が出鱈目なのか。
一番好きなバラはなに?好きなバラは沢山ある。好きな人が大勢いるのと同じで一番はなかなか選べない。白いバラかな。白にもいろいろあってクチナシみたいな濃厚な白ってのもいいし、昭和の洗濯洗剤のCMに出てくる大草原に貼った紐に干されているブロードのシーツみたいな透明な白もいい。
花の付き方にもいろいろあってさ、一本しゅっと真上に伸びた先にポンて付いてる大輪。バラが陽を浴びてるね。何があっても腐らず捻くれず、築百年の奥深さとか長年生きてきた労苦とか、そんなもん無い。どっちがいいんだろう。んーどっちだろ。
グラハム・トマスみたいなヒト嫌だな。いつでも朗らか。強健。たとえ負けたとしてもそのままでは終わらない。安定。揺らがない。どうして嫌なのかな。もしかしたら自分そういう人生を妬んでいるのかな。
ヒトは生まれながらにして公正を求める衝動と平等を願う欲求を持っている。自分不公平にまみれてるやん。捻くれ過ぎて原型失ってしもうてるやん。もうそろそろ素直になれや。グラハム・トマスの黄色が良い、ってスパッと言ったらいいんや。
駅弁はそんなに美味しくはない。プライムで駅弁番組を見ているが彼女が寒い日に熱々のラーメンを食べるのを見てそう思った。このくるみ餅は※のどに詰まらないように注意、の1文に惹かれた。
新幹線は退屈なので少し前だけど関東方面への旅行では気になる菓子を矢鱈と買い込んだ。その中に生八ツ橋があったが八ツ橋はきな粉がふんだんにまぶしてあり車中で食べるのには全く向いていない。味も単調であった。
近所のスーパーにタカキベーカリーのパンや菓子が売っている。これはボーロで、パッケージがレトロで好ましい。タカキベーカリーの菓子パンはだいたいパサパサであるが私はそれも含めてとても気に入っている。社員らが試作の段階でパサパサの仕上りを確認しているに違いない。
休暇にどこへ行くか。シマノ自転車博物館、ニャーベトナムレストラン、地上51階のカフェ、裏山登山、トランポリン、ドライブ。流星群を見に行きませんか。ハイ、行きます。
子どもたちがティーンエイジのころ、真夜中に少し年上のお兄さんに流星群を見に連れて行ってもらっていた。ママも行こうよ。ママはいいよ。流星群がわたしに何をしてくれるというのか。
わたしは流星群を見に行きたい。この目で流れ星を見られたら宇宙を感じられるよね。齢60で到達したようやくの人間味。人間は変わる。宇宙を感じるという実際的な感覚はエンジョイライフの心の装備だとすら思うんです。
何故アイコンを顔にしないのか、顔になってないからわからなかった。外国人の友達がそういったので今日アイコンを顔にした。抱っこしているのは何人かいる孫の中で小栗旬に似た顔の子(どこが?)。(小栗旬好き)。
東海道新幹線弁当、という駅弁がある。車中でも売っているが品川の改札内の弁当屋で買った。冷めたおかずに固めのご飯。これは美味しくなくてもいい。駅弁は旅の装備だから。
ちくま学芸文庫 青木直己著「和菓子の歴史」を読んでいる。数日前この本を手に取った友人が自分は学生時代百貨店の和菓子屋でアルバイトしていたと言うではないか。私は彼女に若菜晃子の「地元菓子」(本です)を見せた。
彼女は表紙の水菓子のポートレートを大垣市と言い当て、岡崎備前屋のあわ雪は美味しくないと言い、やっぱケーキがいいよね、と言う。そもそも和菓子が好きなので和菓子屋のバイトをしていたわけではないのだ。
青木直己の本は興味深く、サトウキビの甘みが日本に入ってきたのは室町のころだとあるが江戸時代に国産砂糖が流通していたなんてそっちのほうがすごい。サトウキビは南国でしか栽培されないからである。砂糖自体は平安時代にニッポンに来ており、甘味ではなく薬品として用いられていた。
緑豆とタピオカは形もサイズも似ているが味も食感も全く違う。友人は和菓子の本より私に興味があり、アナタは韓国人なの日本人なのと単刀直入に尋ねた。私は私は日本人だと答えた。
それから何日か経ち、私は私の脳内に封じ込められたある2つの世界について考えるようになった。
私には特異な友人らがおり、彼らや彼女らは何年も外国暮らしをしている。国籍を取得しその国に住んでいるということが個人のパーソナリティに影響を及ぼすことは全くなく、大人たちはそこはやはり「私はこんなことが好き」という自分の世界観なんである。
2つの世界に分断されていたころの私は完全な子どもであった。幼稚で未熟、苦悩に満ちた子ども時代を私は過ごした。幼い人の暮らしは分断されていてはならない。日常はクリーミーでスムースでなければならない。私はそう思っている。何故なら人間の思考と感情がクリーミーでスムースであれば、それは他者との繋がりを温かいものにする。私が他人に優しくなれない理由はそんなところに起因するのかも。
世界は実際にはひとつしかない。私が生きるこの世界である。私はここで暮らしたい。2つの世界を行ったり来たり出はいりしていたあの景色は鮮明だが、あれは拙い脳みそが作り出した幻想だったのだと確信した。日常の夢。幻想は私になにも良いことをしてはくれなかったし、いったい私はここから逃げてどこへ行くつもりなんだろう。大人には大人のちからがあるのだ。
和菓子に詳しい友人との次回の和菓子談議で何を話そうか。楽しみだな。
五平餅の2種類のカタチ。小判と団子。単なる造り手のデザイン的志向ではなく、この2つには五平餅の明快な方向性、コンセプトの相違がある(とワシは思うんじゃ)(誰?)。
「中山道大井宿あまから」が牽引する恵那市の五平餅は団子型。ひとくち頬張るとうるち米(白いご飯)を潰して丸めた団子が口の中でほろりと解ける。つまりは潰し加減。半殺しもしていない。中でご飯粒のカタチで未だ生きている白米もある。
炊きたてご飯をやっと繋がるくらいにして丸めたものを先ずタレ無しで焼く。そうして米の甘味を閉じ込める。小判型に比べ団子タイプはタレを纏(まと)う表面積が圧倒的に多い。飽きの来ない素朴な薄味のタレ。水分多め、円やかな甘味と旨味の味噌ダレ。
エッジ強めのあまからなタレをふんだんに纏った団子タイプも食べた。「おぎの」の五平餅である。こちらの団子も柔らかいが、ほろりと解(ほど)けるということはない。優しい歯ざわり。団子というよりはライス煮のようである。
「あまから」も「おぎの」も食べていると焼け焦げた糖分が定期的にカリカリとやって来る。なんというリズム。圧倒されるほどのデザイン。良く出来たデザートなんである。
団子タイプの白米の潰し加減とタレのエッジのある無しには相関性があり、それらは五平餅の正解は?という議論とは別次元の五平餅チャートの単なるいち地点に過ぎない。
さて小判型である。小判型は横から噛みついて食べるわけだが、あの噛みつく部分、つまり五平餅の横の出っ張りを形成するには白米を半殺し以上せねばならない。
中津川太田屋は五平餅の名店だが私は友人らとの五平餅投票には太田屋を入れなかった。色んなことを考えてしまった。
小判型であるがゆえの必要。横の出っ張りのカタチを保たせるためには、餅の密着度が必要で、良くも悪くもご飯の味が主張し過ぎてしまう。
三口ほど食べるとああ今ご飯を食べている、という了解が脳内で起こる。小判型は個体の総量も大きく、軽く茶碗にいちぜんほどのご飯を甘いタレで食べているという微かな相克が消え去らない。
五平餅といえば小判型。団子タイプはあくまでも五平餅変わり種というポジション。五平餅の横の出っぱりはやっぱりあった方がいいよね。あの部分をわたしは五平の翼と呼んでいる。
]]>中公文庫、佐野裕二「自転車の文化史」を読む。p65。
「此節府下において専(もっぱ)ら西洋車に乗り歩行行人の之妨(さまたげ)を成し候 趣(おもむき)如何之事に候。自然怪我等致し候て者別して不相済事に付、向後右様之玩具取扱候儀決して不相成(あいならず)候。若不相守(あいまもらざる)もの者其器物取上げ屹(きつ)度可申付もの也」(明治3年8月、大阪府県警本部)
明治3年というのは輸入自転車第1号が日本に来た年なので自転車輸入直後の大阪の町がどんな感じだったのかがとても気になってしまう。
2年後の禁令はもう少し厳しくて、「自転車に乗り、橋上又は街上一町或いは二三町の間を幾度となく戯れに廻転し往来人の妨をなすものは其車取揚げ申すべきこと」となっている。
『戯れに廻転し』。この言い回しがよい。自転車の自転車たる意義を言い得ているではないか。じっさい自転車は戯れに乗るものなんである。
明治33年12月、全8条の自転車取締規則が定められる。道路上の練習と競争の禁止、違反者は10日以下の拘留または1円95銭以下の科料という罰則が明文化された。
自転車はダメ。ねえお願い誰か止めさせて、あの人又自転車に乗るって言うのよ。悪い奴だ、自転車に乗るなんて!
]]>子ども時代南極探検家の伝記が好きだった。彼らのことを前人未到の地を征く勇気ある大人と考えていた。
しかし大人になり世知辛い日常に揉みしだかれ暮らすうち、なんとか楽をしたいものだなと心のどこかで常に考えがちな思考が当たり前となった。
こういうのは少し極端な考え方だが基本易きに流れる思考の癖は曲者である。明け透けな我が身可愛さで他人への関わり全てが計算ずくの下心に基づいてしまうからだ。
無駄を省きたい。最適化のみを容認する。無能な自分はあってはならない。潜在的無自覚にこうなってしまうならそれら恐ろしい。
子ども時代親たちの飲食店業のひとコマでは給餌役の自分の食事は後回しにするという景色は強烈に脳に焼き付いた。わたしは長年自分が食べたいものをゆっくりと存分に味わうという行為に罪悪感を抱いて生きている。
食べたいものをのんびりと食べていては南極大陸には容易に辿り着けないからだ。いつのまに食べたのかと聞かれるくらいをいつのまにか目指していた。
大阪城公園の土産もの売り場でたいへん美しい羊羹を見た。細長いスティックタイプ。手の中に入る。携行食とするには消耗品の印象がないがお土産ものとするには華やかさに欠けていた。
携行食は少し不味いものでなければならないという紳士協定がある。嗜好品として美味しすぎるなら節約して少しずつ食べると言うことがしにくいからである。
そんなわけでわたしは簡易な調理で短時間に食べられる、少し不味いご飯を爽快な気分で早食いするのが常であるが、この大阪城柄の羊羹はどうだろう。気になり過ぎて2セット購入し、明日早速車の中で移動中に食べてみようと思っている。
冒頭の写真は新幹線のホームで買った青柳ういろうである。
中1の孫が最近ボードウォークを乗っている。コントロール不能に加速するからと下り坂を生理的に嫌悪していた慎重なメンタルの少年がいつのまにかロードバイク乗りに成った。小径だけどね。
「京は遠ても十八里」。十八里は約72キロ。「小浜の鯖が一昼夜で出町柳まで着いたというのは、夢のある話やけど、実際にはウソやと思いますわ」。鯖街道という呼び名は昭和50年頃からのことだという。
服部という山屋さんが1回目の塩鯖運搬山歩きをした。そして夜が来て道が不明瞭になるなど時間切れ失敗に終わった。しかし2回目彼は成功した。「足には痛みが残っていた。土の上では気にならない痛みが、アスファルトの上では耐え難い」。(新潮文庫 服部文祥「百年前の山を旅する」より)
'84年ツール・ド・フランス。コロンビアチームのルイス・エレラが初出場でラルプデュエズ、ステージ優勝。「11歳のときに通学のための自転車を母親から買ってもらった。(中略)ポゴタまで往復80キロ、花を届ける手伝いをするようになる」。(講談社現代新書 山口和幸「ツール・ド・フランス」より)
ポゴタは標高2600メートルの高地にある。少年は毎日花を運んではとんでもない山道をぶっちぎり行ったり来たりした。ラルプデュエズを制するものはツールを制する。
山登りって何が楽しいんだろうなあ。早朝ウォーキングの友人に尋ねるとそこに山があるから、っていうじゃない、とケタケタと笑った。
]]>ラ・ルートを読んでいたらぐっさんにそっくりのネジ屋の社長さんの動画があった。横隔膜の緊張が快い艶のある声。ネジガールを増やしたいんですよ、ええはい…。ネジガールとな。唸る。
先週友人と尾根歩きをした。ここはもうしょっちゅう歩いてます、という上級者について行ったのだが、1時間くらいかな、と思っていたところが3時間以上我々は尾根歩きをしていた。頂上ではシューベルトを聴きながらインスタントコーヒーを飲んだ。
その2日後には早朝5時、主人と二人、ズノウで川原の道のりを1時間ほど走った。自転車のあれこれを山程読んでいるが、ズノウこそが私専用のコンパニオンロボット。移動と運搬(今はまだ何も運んでないけど)。ヒューマンパワーがズノウに息を吹き込む。ふらふら漕ぐというようなことはもうない。
登山アプリを落として地図を見ている。山を降りて川原をこう進んで…。私は山と川に挟まれたところに住んでいることがよくわかる。塩卵が完成。茹でたり蒸したり色々やったけど目玉焼きが一番美味しかったかな。
]]>2日続けて近所の山を山歩き。1時間歩けば頂上だが30分で中途で折り返している。昨日は近所の川へヌートリアに会いにいった(会えなかったけど)。増水したドブ川なかなか良いな。
佐野裕二という人の本を読んでいる。日本に自転車が入ってきたのは1865年ごろ。まだ江戸時代だから慶応何年とかいう時。自転車にペダルがついた年は1863年。ワシの生まれた年の百年前ってなんとなくこれは覚えていた(意味ないけど)。
日本人が初めて目にした自転車はミショー型、またの名をボーンシェイカー。フレームを揺すって前進していた。他の資料ではミショーはペダルの父と呼ばれ、明治時代日本にはペダル自転車が多く輸入されている。でもこの本のボーンシェイカーにはペダルはついていない。ふーん。
1870年にはフランスで世界初の金属製自転車が制作された。だからそれまでの自転車はスポークまで木製だったということか。うーんこれは唸る。オーディナリ型(前輪が大きな自転車)は前輪のハブにペダルがある。日本にも入ってきた。ダルマ型と呼ばれていた。
オーディナリは普通って意味。のちのセイフティ型に至るまでの様々なデザインの自転車たち。セイフティ型と呼ばれた所以。つまり自転車はオーディナリ(普通)が危険。怪我を覚悟で乗っていたのかな。ふむふむ。セイフティ型はチェーンによる後輪駆動。
当時の日本。明治維新。自転車元年。いろんなことがあった。田中久重は田中製作所(のちの東芝)を開く。発明家久重は自転車を手作りした。タバコを切る機械、醤油を絞る機械、自転車。そんなラインナップ。
宮田政二郎は鍛冶屋。ずっと猟銃を作ってた。政二郎(二代目宮田栄助)は田中製作所で自転車製作を学ぶ。自転車メーカーの最古参。宮田自転車はこの時に始まった。
頭が疲れたのでシマノに戻ろうっと。’79年。エアロの時代の到来。デュラエースはエアロAXをリリースしたが故障してばかり。ペダルが折れちゃうし、ディレイラーも不調。どうする敬三〜。ああはやくシマノ博物館行きたいな〜。
]]>朝5時ジョギング。6時になるともう蒸し暑い。メロン、イチジク。トマト、キュウリ。西友の漬け込み肉を全種類。もう4日トムヤンを作ってない。
愛知県に21日までのコロナ警戒宣言が出され、なんとはなく塩卵を仕込む。水1リットルに塩五百グラムを鍋で溶かし卵は生卵が30個。IKEAの6リットルフリージングパックで漬け込み、百均のプラケースに納め冷蔵庫へ。8月21日になったら食べられます。
「いっぽうエンジンとしての人間は、体内に蓄積された科学的エネルギーを、足の筋肉の収縮運動という機械的エネルギーに変換している点ではガソリンエンジンと全く同じです。(中略)グリコーゲンと酸素を絶えず補給しないとエンジンとしての人間は機能しません」(渡辺茂著「自転車の科学」p40)
昭和49年の本なので安いんだろうな、と思ってたらAmazonで4千円近い値がついてたこの本。しかも図書館の本なのに書き込みしてあってこの場合はまあ誰か知りませんが自ずと自転車愛を共有出来ますんで好ましいわけでした。
佐野裕二という人が書いた「自転車の文化史」という本には全く驚くべきことが。「堺に自転車部品工業が定着した背景には幕末失職の鉄砲鍛冶が…」。むむう。今なんと…?
小関智弘さん。この人は旋盤工で小説家の人なんですけど最近読んだエッセイによれば、伊勢神宮の式年遷宮(建て替え)で使う釘は8万本。ガリガリ削って作っていたわけです。
シマノ105にDi2搭載。クランク裏面などは艶出しの磨きは無しでコストダウンですと。オートマで変速ってさ、「今ワシ何速に入れたっけ?」っていうのはないのかな。(次元の違うハナシでしょうな)
urge。アーヂ。背中を押されるように突き動かされること。今日もまたアーヂな日常。
]]>日本経済新聞出版社「大人のための自転車入門」p156。自転車はヒューマンパワーを推進力に変える。自転車に乗るつまりペダルを回す。
この本によればペダリングには2種類。回転重視型とトルク重視型があるという。重いギアを力まかせに踏み込んで坂を登ると太ももに負荷がかかり、なんだか筋肉を鍛えているという充実感や達成感がある。
だけど現実には重いギアを踏み続けることで筋肉中には疲労物質と老廃物が蓄積するし、私なんかは足が死んでしまってなにもかも嫌になる。
私は10年前ダホン(小径ロード)を乗り始めてすぐに、この全然「楽しくない」踏み込み式ペダリングを辞めた。足が辛くなる前に1枚ギアを軽くして、クルクルと勢いよく足が回る設定に変えて走る。筋肉と関節の余裕を温存。重力と慣性を味方にダホンに乗せてってもらうのだ。これが回転重視型ペダリング。
ところがトルク重視型は何回読んでもよくわからん。「12時の位置から一瞬だけ踏み込む…」「…野球のバッティングのイメージ…」。ギアは若干重め。大臀筋(だいでんきん)(太もも&お尻)で大きな出力を得る。…うーん…。
結局これって踏み込むのと一緒じゃないかい。かつて自転車オタクの友人は語った。「相撲でしこを踏む、もしくはすり足で進むように漕ぐ」。いやいや、相撲で例えられても。
音楽中毒。バッハとモーツァルトとビバルディ、ドビュッシーとベートーヴェンが500曲ずつ収録されたサブスクのアルバムで一日中何か聴いている。ビバルディ意外といいな。
キッチンでは誰かと電話で話しながらご飯を作るのが好きである。電話しない?とメールすると暇な友人や家族がすぐに掛けてきてくれる。またトムヤンクン?新鮮なトムヤンクンを提供したいからね。
誰も電話出来ないときは「世界の車窓から」をアンカーで流してる。キャベツのみじん切り。セロリ、キュウリ、美味しい米久のハムも刻んでコールスローサラダを作る。冷凍のアジフライを多めの油で焼く。
'71年か'72年。島野工業に自転車レースのタイトルを持った人が初めて入社した。その人は中村博司という。この人の初仕事は「素晴らしき自転車野郎」という島野工業提供のテレビ番組のタレントだった。
同じ頃島野工業内に自転車部設立。部長は庄三郎父さんの次男島野敬三。彼はスポーツは野球だったから監督には辻昌憲というオリンピック代表が招かれた。
自転車部の社員は午前中だけ仕事をして、午後はロードバイクのトレーニングだった。午前中の仕事というのも新作のデュラエースに乗ってみる、というもの。選手時代はカンパニョーロ主義だったという長谷部という人の言葉。
「会社に入って、シマノのクランクを使ったときにあれ?って思った。すごく柔らかい。(中略)。柔らかくて力が入らない。これはダメだと思ってすぐに開発に話しました」
なぬう?柔らかくて力が入らない。どんなんや。
世界の車窓から、聴きながら、キャベツ刻みながら、柔らかい自転車のことを考える。ああわたし自転車が好き。
]]>山口和幸のシマノの本が来た。山口和幸で検索していたらラルートという良さげなサイトを見つけた。早速定期購読。
自分の乗っているズノウをネットでリサーチしたがはっきりとはわからない。おそらくは'84年製のものか。ディレイラーのロゴを調べる。シマノ600EXシリーズか。ネットの写真はコンポーネントだが果たしてこのズノウはどうか。
ズノウをリサーチしているとビルダーというのがすごく出てくる。ビルダーは建築家だがロードバイクの場合はフレームを作る人のようである。手作り?ネンドで模型を作り鋳造して作るのだろうか。
島野庄三郎には3人の息子がいた。尚三、敬三、喜三。父庄三郎が亡くなったときシマノは年商7億。どうやってデュラエースなんて凄いものを開発するまでに成長したのだろう?デュラエースのデュラはジュラルミンから取られたらしい。
ニッポンでは自転車の用途というのは運送と移動だった。おそらくまだ常務か専務だった長男尚三は外装式3段変速機なるものをアメリカ輸出。営業は英語が堪能な喜三。彼は間をあけず欧州へ進出。自転車部品コンポーネントでシマノブランドを立ち上げる。
当時ニッポンではブレーキはブレーキ屋が作っていた。しかしシマノは全部作っちゃった。でもそれはいいことだったとわたしは思うよ。だって自転車は生きているからあちこちで部品を作って組み立てるより、一人の人かさいしょからさいごまで作ったほうがいいに決まってる。
わたしはズノウに名前を付けた。その名も戸留宮(とるく)猛面登(もーめんと)。夜露死苦とかではないよ。そーいうんじゃないからね。
'72年。シマノのデュラエースがリリースされデュラのラ・ルートは敷かれた。以来このデュラというやつは「もっと人間に優しいものを」をコンセプトに、ある時は大阪の港町近くのビルの一室、またある時は北ヨーロッパのとある国で毎週繰り返されているローカルレースを見守るメカニックの路地で。幾人ものかつての自転車少年たちの前頭葉がオーバーヒートする、悩ましきエポックメイキングの喧々諤々(けんけんがくがく)である。
ブレーキレバーを使って変速する??ブレーキを使っていいんか?高性能とは本当に求められている機能をマシンにつけてあげること。斯くしてデュアルコントロールバーが誕生。SIS(シマノ・インデックス・システム)はSTI(シマノ・トータル・インテグレーション)へとメタモルフォーゼを遂げる。
'89年アンダーソン某なる自転車乗りはベルギーのケルメスでデュラのプロトタイプを装着した自転車でアランパイパー某なる自転車乗りの前を走ったがレバー無しで変速するアンダーソン某のロードは整備不良でギヤが歯飛びを繰り返す故障車にしか見えなかったという。
月末に遠方へ行く用事があり、夏休み中なので久しぶりに18切符を購入。スマホにジョルダンを落としたが課金しないと18切符情報は得られなかったので課金。埠頭に泊まるかのような宿も予約した。時刻表を買いに本屋へ。いそいそと八重洲出版「ツール・ド・フランス2021公式プログラム」を買った。わたしのツールは今のところ'90年。
'90年のわたし。レコード屋でアルバイトをしていた。赤いオートバイに乗っていた。お気に入りの海老茶色の麻のシャツを1枚持っていて、二千円もするお菓子作りの本を買って、生まれてはじめてハンドミキサーでメレンゲを作った。借家にはエアコンがなかった。
1921年現シマノの創始者は大戦後の不況で失職中の青年であった。1台の旋盤機で自転車用のフリーホイールを開発、会社は量産輸出するまでに成長した。
フリーホイールって。フリーホイールはスプロケットでラチェット構造であり、エイッと一漕ぎでぐいーんと進むことをトルクって言うんだけど、自転車の変速機はこの慣性の法則を利用している。
買ったばかりの八重洲出版のp167に'21年のニュートラルアシスタントがシマノになりシマノカーは自動車3台とオートバイ1台でツール・ド・フランスオールステージをアシストするとあったのだ。シマノの本社ビルは大阪の堺で、youtubeではサッカー顔の取締役の男性が英語でスピーチをしていた。
'22年のツール・ド・フランスは今月アタマから開催中。自転車部の友人が'22年のダイジェスト動画のリンクをラインに貼ってくれたので早速見る。いつ見てもリアリティのないツール・ド・フランス。バイクもジャージも華やかカラフルの上ライダーたちは無表情で。でもなーんかあれだね、こんな専業主婦にも来てるわけ。これがあれなんだね。シマノのトルクだね。なんだろなー。シマノ。
]]>昨日からずっと雨。沖縄の友人が海上の低いところの入道雲を指差して、あの雲出来たばっかり、と言った。嘘、とわたしが言ったら友人はあそこ、雲が出来るところ、と言って指差しを止めない。さてこの雨雲たちはどの海上で発生したか、いったい何処からやってきたのか。
精神科へ行ったり役所で医療費などの手続きをしたりするとやり取りや場の空気の翳りが余りにも強くて記憶がすっかり上書きされてしまうことになる。約半日で私の大脳皮質は広範囲にわたり土留め色の厚い雲で覆われてしまうんである。
わたしは'89年のツールについて考えていたのではなかったか。せっかくタイヤに空気を入れたのに自転車で出掛けられない主人は昼寝をはじめた。冷たい絹ごし豆腐、冷たいトマト、焼いたエリンギ。3リットル千円の安いスペインの白ワインをリモンチェッロの空き瓶に詰めて冷蔵庫で冷やし、午後まだ早い時間から酒を飲む。
ツールの始まりは個人T・T(タイム・トライアル)たが、'86年から'89年までのT・Tはクール便のトラックが牽引するような頑丈そうなコンテナから選手は飛び出していた。'90年のツールのプロローグはアルミパイプで組んだ工事現場風足場的傾斜板である。
あのスタート良かったなあ。箱から飛び出すのは自転車に乗った子ども。合図までおじさんたちが脇で支えているからかな。プロローグで一番になったのはティエリー・マリーという人。名前からしてフランスの人かなあ。マリーロードバイク、マリーツール・ド・フランスでいくら検索しても何も出てこない。英文字で検索したらやっと上がってきた情報。マリーさん、わたしと同い年やんか。そりゃまあなんというか…そうかそうか…これよかったら、安いワインだけど飲みません?
]]>今年もツール・ド・フランス開幕。友人が手描きの絵日記風ツールレポを見せてくれた。いい感じ。ピタピタロンパースとヘルメットのスプリンターたち。T・Tスタート。躍り出る箱。
ドイツとか地下鉄でいけちゃいますよ。数年前馬籠で出会ったルクセンブルクの男性が言っていた。'89年のツール起点はルクセンブルク。プロローグや個人T・Tののち、第3エタップでベルギーに入国。ベルギーのF1サーキットを2周してゴールとなる。
サーキットエタップの区間優勝はメキシコの選手で彼は前回ツール時はチーム・セブンイレブンにいた。'89年22位のアメリカの選手の所属がチーム・セブンイレブン。ツール・ド・フランスのチームの名前ってなかなか覚えられない。セブンイレブン…。セブンイレブンってあのセブンイレブンです?
BTSのフェスタみたいな、メンバーがご飯食べてるやつを見て涙がこぼれた。どんな法則からも自由になって制作をしたい。職人として制約を果たす。アーチストとして良いものを創る。ジミンが酒を呑み過ぎている。尖った感情を酒で押し込めていた。
ズノウが戻ったので明日の早朝早速乗ろうっと。これはあれだな、ツール・ド・ズノウ。プロローグは最寄りのセブンイレブン。第2エタップはファミリーマートを経て東へ。周回コースを巡って自宅に戻る。セブンイレブンのパンて健康志向でイマイチ面白味に欠けるんだよね。ファミマでヤマザキのいちごスペシャル買って帰ろっと。
]]>ルナゼはポンシャトーからルマンへ向かって東へ100キロ辺り走ったら着く感じ。コースクレジットを見ると'88年のツール(ツール・ド・フランスのこと)は第3エタップでナント〜ルマン間213.5キロがあるから、コースがルナゼを通過したのはこの日かもしれない。
'88年ツール。マーク・マディオとイヴォン・マディオはルナゼ出身の兄弟で、ウィキには兄マークの情報しかないけれどyoutubeには二人の凱旋風景が上がっていた。
ツールには様々な暗黙の紳士協定があり、コースが凱旋パレードに突っ込んだ場合のルールは微笑ましく、地元民によるおらが町のヒーローお迎えのなんやかんやをレースより優先する。
マークとイヴォンはこの町で生まれ育った。二人はどんなお子さんだったんですか?インタビュアーが尋ねると、まだ若い父親はふたりとも自転車が大好きでしたとはにかんで答える。
手作り吹奏楽団によるかつての男の子たちもみくちゃ合戦が終わると、マークとイヴォンは静かに道路の脇に立つ。その場所で他の全ての選手が通過するのをじっと待つのだ。自分たちは最後尾でレースについてゆくんである。この日は住民の8割の千4百人が凱旋パレードに加わった。
'86年の完走率は63%、'87年65%。これって高いの低いの。'88年は平地を減らし山岳コースを大幅に増やし、スペインのデルガドが優勝をしたんだけど、アルプス越えでずっとデルガドのペースメーカーだったルークスは山岳賞で水玉ジャージをもらった。
私の脳内で'88年ツールが終わった。その日の夜、自転車オタクの友人が私が借りっぱなしだったジオスを引き取りに来た。私は彼に尋ねた。山岳ライダーたちが平地が苦手って、ヒルクライマーってのは山猿なのか。あーそうかも。友人は笑った。
梅雨が明けて記録的に暑い日がこれでもかと続いている。こう暑いと友人たちとゾロゾロ、自転車で繰り出したくとも、中には暑いのが全く平気な輩もいるが、自分としては具合が悪くなって足手まといになるのはかっこ悪いから二の足を踏む。
'86年のツールが終わった(本の中で)。マイヨ・ジョーヌってのは自転車に乗るときに着るシャツのことだったのか。フランス語の馴染みの無さよ。'87年のツールはまさかの西ベルリンで始まった。西ベルリンてフランスじゃないですね。
今は何個めのエタップか。著者は何か危険な場所で夢中でシャッターを切ったと書いていた。わけもわからず36枚全部撮ったと書いているが、その時の一枚が本当に素晴らしい。
そこは巨石を積み上げて造ったアーチ式の橋の上。一見するとそこは橋には見えない。自転車は魚の骨みたいにくねってる。華奢な男たちが美しい。シンクロ静止画。鳥肌ものである。
プライムで2017年のオリカ・スコットのドキュメンタリーを見た。賄いを仕切っているデンマーク人女性が高揚して口やかましくてもうなんかすこし静かにして欲しい。彼女はツール御用達のシェフらしい。とにかく頑張っている。
2017年のオリカ・スコットのリーダーはチャベスというコロンビアの選手でオフの彼はいつもキャップを被っている。童顔チャベス。補給食のバナナを頬張る。チャベスバナナ似合ってんなあ。
個人T・Tでオリカは選手が転倒。頑張ってゴールしたけどドクターストップにより棄権。この日のコースは雨だった。高速ではしっているからマンホールの蓋やアスファルトの出っ張りなどでいとも簡単にタイヤが滑っちゃうんだね。
わたしも初めてロードに乗ったとき、砂利道でなんとも言えず緊張した。ハンドルがふらふらっとなって「なんなん、ここガタガタや…」。弱音を吐いたのは車輪の方で、わたしではない。
ビビってる場合じゃないぞ、オラオラ〜突っ走れ〜。そんなふうにしてわたしと自転車は仲良くなった。
]]>ラルプ・デュエズをGoogleで検索するとフランスのスキー場とある。南仏エクサン・プロヴァンスの北150キロほど。地図で見るともう山だらけ。雪沢山降りそうだよなあとか思います。
私は30代後半のころ、何年かスポーツジムに通っていたことがあったが、そこで親しくなった女性がスキー選手だった。故障をして競技をお休み中。もともと雪のない季節はジムでの基礎トレを欠かさないと言っていた。
話はラルプ・デュエズに戻って今年(2022)のエタップ・デュ・ツール・ド・フランスがラルプ・デュエズなんだそうですね。このエタップなんたらというのは毎年ツール・ド・フランスの一区間を一般参加の人たちが走るレースのことですね。
まあそれで、ラルプ・デュエズかあ、ふうーん、っていう話なんだけど、今年も暑くなってきて自分お約束の熱中症やったりして部屋でゴロゴロ。自転車乗りの本をコツコツ読んでいるわけで、そしたら、ですね、このラルプ・デュエズがたまたま別の本で出てきたんですよね。
ツール・ド・フランスの本は入手しやすいのでサクサクっと既に何冊か読んでまして。北中康文という人が書いた?出版「ツール・ド・フランス 黄金時代」てのが一番よかったな。今日もまだ読んでまして、これはなんというか読むというより、この本をもとにバーチャル式ツール・ド・フランス(読むことで参戦)が可能。そういうデータ本になってますね。北中という人はスポーツカメラマン。
スポーツカメラマンやスポーツライターの取り扱うものって大概「スポーツドラマ」で、読むとこれがじわりと感動しちゃうことになってるわけです。例えば野球だと引退試合。甲子園だったらば大逆転劇(どっちも野球だな)。
ラルプ・デュエズで「スポーツドラマ」を書くとすれば、「1986年のイノーとレモン」になるかな。イノーもレモンも人の名前ですね。おじさんたちですよ。レモンという名のおじさん。
そういえばわたし、数年前、もらった猫にレモンて名前を付けたんです。ところがしばらくしてその猫はオスだと判明した。女の子だと信じて疑わなかったから、その日から猫の名前は「アケチ」に変えました。明智光秀のアケチですね。人間の方が勝手に女の子だと勘違いしたわけで、猫に罪はありませんがなんというかよく見ると策略家っぽい顔つきの猫で。
1986年からロードバイクレースの転換期が始まったと言われています。大手グランツール(何千キロも走るヨーロッパの歴史ある自転車レースのことです)ではそれ以前のヨーロッパ勢主導型から新大陸への選手層の拡大、空気抵抗と戦う自転車メカニックの追求。(わたしは一介の主婦なので本を読んではわからないことを友人たちに尋ねまくるわけですが)。
昔スポーツジムで友達になったスキー選手の彼女にわたし訊かれました。アナタは何の選手なの?そのころの私は悩みが多くてですね、考えていた以上に毎日キツいトレーニングをしてたんでしょうなあ。わたし?主婦だよ!ねえ主婦なのにそんなに鍛えるの?ははは、おかしいよね!
「1986年のイノーとレモン」。イノーはご当地フランスの超人ライダーです。方やレモンはアメリカ人でしたね。レモンは若い頃はスキー選手だった時もあるみたいですね。色々と読んでます。
レモンはアイスクリームが好きだった。フランスでは真の自転車乗りはアイスクリームを食べない。レモンは部屋で隠れてアイス食べた。宿舎でレモンと同室になるのをチームメイトたちはとても嫌がった。しきたりに反するとレースに勝てない。俺は勝ちたい。アイスなんか食べるかそんなもん。
イノーは違いましたね。レモンを理解したかった。だってチームメイトだから。
果たしてイノーとレモン。一緒にアイスクリーム食べたかなあ。あのね、暑い日はアイスクリームがいいよ。わたしなんてなんの選手でもないけどシロクマ一本あれば熱中症も改善に向かいますもん。イタリアのレース行けばほらレモン味のジェラートも食べれるやん。(そういうことじゃない?)(すみません、このブログ駄目かな)。
ヌウ・ベットホールド港からボストンを経て、フランクリン号は大西洋を東へ踊り出、ウェスタン群島のファロー島を南下しカナリア諸島、そしてケープ・ハート群島で水を積んだ。こういう島々ってあれかな、潮流に乗るのかな。私も乗ってみたいな。捕鯨船。
]]>モンテヴェルディ
鉄の心。辛かった。くるしかった。だけど現実を受け入れたい。鉄は鉄でも私の心は真っ赤に熱した高温の鉄だから辛さも苦悩もありのまま受け入れることが出来る。今までありがとう。今でも心から尊敬しています。今後のご発展をこころから、本当にこころから祈っています。さようなら。この世の人間で1番私に寄り添ってくれた人だと馬鹿な私は今でも信じてる。その事実は何をもってしても塗り替えられない。何万回もありがとうを言ってもお返しも出来ない。沢山沢山ありがとうございました。
]]>峠の我が家
昨日変な夢を見ました。主治医が私に百枚以上ある手書きの原稿を手渡すという夢です。貴方はグレイのシャツを着てハキハキと話し、豪快に振る舞うのです。そして言いました。これは僕の怒りです、と。
]]>夏の最後のバラ
聞くことに徹してもらい、何も返事を返さないでほしいとお願いしてみること。
大きなトピック、長い話は輪切りにして一度には話さないこと。何回かに分けて少しずつ、相手に内容がわかるように話すこと。
相手の側に限界が来たときはいつでも「もう話さないでくれ」と相手が言うのを快く許すこと。
この人にこの話を話すこと自体、現実に見て適切かどうか見極める作業から逃げないこと。
]]>アンダンテ・カンタービレ
リスパダール飲んだって僕が見えなくなるだけで僕が消えることはない。だけど飲みたければ飲めばいい。だけどひとつだけにして。それ以上飲んでも薬を消費するだけ。肝機能を消費するだけ。効果は変わらない。よく考えて。
君は猛獣なんかじゃなくて、怒っている子どもなんじゃないかな。僕は喧嘩する気は無いけれど、腹の立つことがあれば何でも僕にぶつけていい。全部理解出来るとは限らないけど、君の言葉を百パーセント受け止める自信はある。パンチ入れて来い、打って来い、本当だよ、大丈夫だ。
外野フライが高く上がって一瞬空に吸い込まれちゃって、何も帰らない日々の終わり。精神病とか記憶が飛ぶとか多重人格とかとにかくみんな見えてきた。守備範囲もわかってきた。いつ落ちてきてもどこに落ちてきても走り込んでキャッチする。
トレーナーのことを知るとか、よもや深く愛するとかこの精神病っていうレースには不要。実際に試合に出るのは私。この試合には私の生死がかかっているだけじゃなく、トレーナー自身難しいレースのさなか燃え尽きたならギャクテンイであっさりと絶望で潰れる。僕らはごく普通の生身の人間に過ぎないからね。これ忘れたらおしまいだからね。だけどいつか言ったよね、もし僕が潰れたとしても、そのこと自体に意味があるって、もうダメだって思ってからが大事だって。
保身で守り、最適なシチュエーションしか認められない脆弱な自己過信。いつもどっかの誰かの落ち度を見つけては苛ついてばかり。愚か。
]]>ブラームス’眠りの精'
焼け付く様な暑さの夏も
凍える冬の寒さにも
ちらほら咲く
刃金に似た強靭な茎と棘
花弁の赤色は変幻自在
ムタビリスの様に強い
ムタビリスの様に美しい
ムタビリスの様に奇妙な
大橋トリオ
押入れを片付けていたら毛糸が出てきたのでマフラーを編むことにした。ゆるゆると縄編みを編む。四目ずつ表編みと裏編みを交互に編むなら裏面も表編みと裏編みが交互にくるので表編みの部分を二種類の縄編みを一定の法則で編み進む。次第に複雑な幾何学的にして単純な模様が浮かび上がる。友人に写メしたら色々教えてくれた。輪になった編み棒があるらしいねと返すと持ってるからあげるよと写メ。輪の部分が透明でかわいいやつ。嬉しいな。今朝犬の散歩をしていたら涙が溢れてきた。大橋トリオの曲はなんだか泣ける。
]]>この世界の全てのマスプロダクトメディアはネットだろうが何だろうが貨幣経済でしか一文字も許されないプロパガンダだよ。たとえそれがまごうことなき真実だとしてもだ。一体それがなに?僅かな真実を知った、俺は鬼の首を取った?やめてよ、ホント貴方らしくない。裏が取れた?秘密なんてどこにもないさ、秘密にしてる風に見せかけてることがあるだけって、ちょっと考えればわかるやんか。
私たち同じサバイバーじゃなかったの?今までの全てはお芝居だったなんてあたし信じたくない。私を楽園に連れていくって、私がどんなモンスターでもわたしから逃げないで踏ん張ってくれたのもお芝居だったのかい。
ね、何があったのさ、一体私の何を嫌悪したの?一体私の何を拒絶したの?もう俺ヤダ、って思わず漏らしたよね。そんなこと知るかアンタプロやろ。当たり障りのない患者を相手に、悪口を吐いて何も生み出しもしない時間を消化してりゃそれでいいのかい。
天空を飛ぶ天使って本当にいるんだよ。それをガチで信じてる私のこと内心でクレイジーって、イっちゃってるってやっぱ思ってた?まあ私ビョーキだし。んならもうなにもかもおしまいだよ。これ極端なこと言ってんじゃないよ。
私貴方のこと、この先将来もずっと一緒に、私には無い力で牽引してくれるって、形而上的に言えば一緒に空だって飛んでくれるかけがいのない同胞だなんて、疑いもせず呑気に考えてた私、馬鹿だったのかなー。
勝手に傷ついて、勝手に悲しくなって、こんな乱暴なこと、だけど嘘はないよ、正直に書いて、たぶん貴方は「ばかやろー、俺だっていっぱいいっぱいなんだ」って腹立てるだろうな。
だけどトーシツ舐めんなよ。見放されたらもう死ぬしかないかんね。あたしたちの今までの何十年かが今日損なわれちゃったなんてヤダヤダヤダヤダ。来月もう来ない?とか本気で言ったの?だったらアンタは本物の阿保やわ。一体私のことなんだと思ってんだよ。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿ーーー!
]]>髭
数日前のこと友人とくだらない話をしていたつもりがまるで落とし穴に落ちたかのよう我が心象思わぬところでの沈水。その日彼は私の一つ年下、わたしは二十歳だった。二十歳の私は空気を読む能力の欠落というよりは手前勝手自分本位な状況判断。彼が性同一性障害を患っていることを受け入れることが出来なかった。彼は私にコイツいい奴だな、と男前な侠気を感じた。ご都合的思春期の私は男前な彼を至極好ましく思った。脳の障害。ホント要らんわ。でも今なら会える。惚れた腫れたはもうないもんな。たとえ立派な恋じゃないとしてもちゃんと友になれるよ。もし彼にもう一度会えるなら宇宙の平和について、人間として生きることの素晴らしさについて語り合いたいのだ。
]]>大橋トリオ'モンスター'
出来事の記録。3ヶ月振りのベトナム語レッスン、3ヶ月振りの声楽レッスン。そしてやはり数ヶ月振りにパリピの友人らとドライブ、カフェでブランド珈琲を頂き、又別の日にはフリマの雑踏を歩く。家でゴロゴロ暇な時間にお預かりのコーギーをお利口さんに躾けるべくお腹を見せる服従のポーズをしたら大袈裟に褒めておやつをあげる。すると昨日フィラリアの薬を嫌がって吐き出したコーギーが自らごめんなさいのポーズをするではないか。なんと可愛い。友人がこの曲がいい感じだよと教えてくれたのに私おばさんだから秦基博さんのことをつい畑正憲って間違えて言っちゃったりしてその度に動物王国か?ってなりました。
]]>今朝四時、やや控えめにコーギーが私を起こした。まだ暗いよと寝袋にコーギーを抱き込み二度寝。明るくなる頃我々は近所の公園へ。久しぶり犬友たちとの再会。ねえワンちゃんぽっちゃりしたんじゃない?そうかな。帰宅後は真っ直ぐ風呂場へ。芝生の朝露と砂で完璧なるきな粉餅と化したコーギーをシャンプー。そんなこんなで現在日向ぼっこの真っ最中です〜(^^)
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