同級生

  • 2017.12.31 Sunday
  • 05:38

 

いつか頼みもしないのに母が私を見知らぬ墓の前へ連れて行ったことがあった。私はその時もう子どもがいて、ある日母の運転する車に乗りその墓を訪ねた。その墓はキリスト教のもので碁盤くらいの平らな石が地面に置いてあり石には苗字と名前のあいだにカタカナの洗礼名がついた長い名前が彫ってあった。

 

 

その墓は母の同級生の墓だった。持ち主はまだ生きていて名前は赤い字だった。死んで葬られるとき赤字は黒または白に変えられると母がその時言った。私はずっと黙っていた。その日は何も言うまいと頑張っていた。母の同級生には子どもが2人あって1人は私の同級生だったのだ。

 

私が小学生のある時期父が転職をし一家で祖父母の家に居候をしていたが件の同級生とはそのときに出会った。あの年は思い出したくもない出来事が多くあったがその同級生の存在もそのひとつだ。

 

私は場面緘黙という厄介な症状の子どもだった。教員は私をまるでそこに居ないかのように無視した。しかし同級生たちはそうではなかった。教員が私を呼ぶのは同級生らと私の悪意のない小競り合いが生じたとき。おいこら何をした。教員が私だけを咎める。

 

あるときひとりの同級生がそんな不公正に意見をした。どんな風だったか彼は教員に食いついて私を擁護した。教員は咄嗟に困惑した。教室の皆も感じていたことだった。ところがその日以来、その同級生は教員に嫌われてしまった。彼は私同様教員から咎められる羽目になった。

 

 

わたしは辛かった。不思議なことだがそれは自分が咎められる以上に辛かった。だからそのことはあまり思い出したくなかった。そしてあのときの彼の父親は母の同級生でもあったという事実に私は困惑した。

 

最近右の耳に低音の耳鳴りがある。男の低い声に反応する不快な耳鳴りである。診察で取り扱ってもらわねばならない。忘れないように取り急ぎ書き記すことにしたわけである。

 

 

 

 

 

 

 

どこへ?

  • 2017.12.29 Friday
  • 11:09



シューベルトの歌曲を聴いている。「DIE SCHONE MULLERIN」美しき水車小屋の娘、D.795のNO.2。「Wohin?」(どこへ?)という曲を繰り返し聴く。歌詞はミュラーという人が書いたようだ。「どこへ?」はメロディもいいしギターの伴奏も良い。どうしてもこればかりを聴いてしまう。

 

数日前「母べえ」を観た。ネットのレビューではみんな吉永小百合を褒めていたけどわたしは断然笑福亭鶴瓶や壇れいなどの芝居が良かった。俗で下品な奈良の叔父さんのことを「なんだかほっとする」と言った吉永小百合の演技は全然駄目。設定上仕方ないが結果吉永小百合を家庭内に閉じ込めたんである。彼女が求めているものは響いてはこない。

 

映画を観てのちしばらく笑福亭鶴瓶演じる奈良の叔父さんのシルエットが頭から離れない。小さい頃あんな叔父さんがうちにも時折やってきた。母は嫌がりつつも来訪を歓迎したし父は旅の話を聞きたがった。無所属で自由な旅の途中。叔父さんの滞在中家の空気はがらりと変わった。

 

日常を愛するのは悪いことじゃないけれど奈良の叔父さんの存在が「なんだかほっとする」のはそれが日常を突き抜けているからだ。だから「なんだかほっとする」の少し前に「変な人ね」や「困った人ね」が有るはずなのだ。

 

 

パフォーマンス

  • 2017.12.26 Tuesday
  • 08:27

 

昨日は一日台所で作業していた。農協で赤いジャガイモを買った。これで煮っころがしを作ろうと思いついた。煮っころがしだけではビタミン不足になると考えたのでサラダや野菜炒め、煮しめを先に作った。じゃがいもよりも先に調理した方が良いと思われる食材が目についた。今日は残業が無いよ、と夫からメールがあり、寒い中を自転車で帰ってくる夫のために温かいスープを1人用の土鍋に作った。結局煮っころがしは作らなかった。

 

早い時間に夕食を摂った。なにかPCで映画を観ようと前から観たかった「Mr.ビーン・カンヌで大迷惑」を観た。前作と違いテンポが良い。親切な男性、可哀想な少年、別の意味で可哀想な映画監督などビーン以外のキャストがとても良い。とっておきは黄色いミニクーパーで颯爽と現れてビーンを救い出す女性サビーヌ。笑顔が良い。良かったね、ビーン。山盛りの苦労が帳消しだ。。

 

なんやかんやで無一文になったビーンと男の子。小銭を集めようと市場でストリートパフォーマンスをするビーン。ローワン・アトキンソンのダンスが素晴らしい。ずっと観ていたい。観ちゃうよなあ。劇中の彼にはほとんど台詞がない。エンディングも和やかで良かった。Mr.ビーンは英国ではPG指定。”子どもたちは親同伴で観ることが望ましい”とされている。ビーンのしでかしっぷりは結構酷いからなあ。

しりとり

  • 2017.12.24 Sunday
  • 10:29

 

最近レキシというバンドの存在を知り真夜中にふと目が覚めてしまってなかなか寝付けない時などにYouTubeで聴いている。ボーカルの男性はアフロヘアで歌がとっても上手いし、なによりレキシの曲は「縄文土器・弥生土器、どっちが好き」「狩りから稲作へ」など中学校の日本史の参考書の一頁を切り取ったような歌詞で聴いているとくすくす笑いが止まらない。

 

YouTubeでレキシを聴けるだけ聴いてしまうがまだ眠れない。そんな時はジャルジャルを観る。ジャルジャルはエネルギッシュ。ジャルジャルには一貫性がある。ジャルジャルは一貫してくだらないが「しりとり」という昔のネタがわたしは好きだ。ジャルジャルの「しりとり」と観るたび、しりとりというものがこんなにも荒々しくファイティング・スピリッツを喚起するものかと感服する。

 

お前の時給を20円にしてやるからな。年かさの大将が駆け出しの小僧銀次に対し大人げなく人間性をおとしめてゆく下りは怖い。この大将にはそもそも学というものが無い。寿司職人としての小さな世界。大将としての男の誇り。年長者の品性。しりとりに負け掛かるというただそれだけでそういうものすべてが壊れてゆく。寿司職人は争ってはならない。そんな教訓がここにはあるんである。

 

今週は診察で疲れているのかな。ぼんやりしていると夫が私を気遣い尋ねた。”レキシ”にする?それとも”ざるざる”にする?”ざるざる”。”ざるざる”。ジャルジャルが”ざるざる”。これいちばんじわじわくるなあ。

続・男はつらいよ

  • 2017.12.23 Saturday
  • 09:50

 

昨日診察日。帰宅後長女の手作りの林檎マフィンを食べながら男はつらいよ第2作「続・男はつらいよ」を観た。寅次郎全48作品の中で私はこの第2作が一番好きである。若き渥美清がとにかく暴れる。涙をふきふき書類に署名をし、警察関係者に不起訴を願い出るさくらをよそに両手に手錠を掛けられふてくされる寅次郎。20年も行方不明になっていた実の兄。涙の再会をするもお兄ちゃんは厄介なやくざものだったんである。

 

 

こんな主人公を愛されキャラとして描く映画というものの実力。だって私たちは家族じゃないの。おばちゃんが泣く。今のお前を見たら死んだ親父は落胆するだろうよと寅次郎をグーで殴るおじちゃん。なんだ畜生偉そうに言いやがって、親父の拳はもっと痛かったぞ!的外れの自慢でし返しをする寅次郎。私は調子が悪いとここらへんでめちゃくちゃ泣けるんである。

 

 

心配し過ぎじゃないか、小難しいこと言ってないで発表会出りゃあいい。主治医が言う。間違えたってみっともなくたってあははって笑って誤摩化しちゃえよ、俺だってよ、経験あるんだぞ。主治医は若き時代にはエレキギターでバンドを組んで演奏をしていたと言った。知ってるよ、なんだっけ、妙ちきりんなギター。スタインバーガーね。ねえなんであんな変なギターがいいの?俺は体がちっちぇからさ、あれは軽くてちょうどいいの。

 

あのさあ、わたしバッハが好きなのさ、とにかくねバッハが好きなのさ。私はうだうだとくだを巻くんである。うんうんそうかそうかわかったわかった。あーあー、なーんか先生やっぱり冷たいよなあー。私は悪態もつくんである。よーし話してみろバッハがなんだって?

 

だからさあ先生、俺はバッハが好きってこと、わかってる?そこんとこ。主治医が笑う。やばいよやばいよ寅次郎出てきたよ。

記憶

  • 2017.12.22 Friday
  • 06:45

 

演奏会など知り合いに多く会う場所が私はとても苦手である。友人にそんな話をしたら友人がそれは相貌失認ではないかと言った。相貌失認とは人の顔が覚えられない脳の障害のことなのだそうだ。

 

そうかなと返す。私は人の顔が全く覚えられないというわけでないよ。友人が言う。相貌失認の人は単純に顔が覚えられないということではなく、他人を記憶するやり方が特殊なのだという。背広の色や帽子、匂いや音と一緒に記憶してるからその何かが欠けていると思い出せないわけなのよ。友人が優しく説明をしてくれる。

 

数日前のことだ。大勢の人が集まる場所で少し前に友人となったばかりの若い友人が私に挨拶をしたが私は直ぐには彼のことが思い出せなかった。

 

たしかにそうかもしれない。私の他人に対する第1印象は必ずしも顔ではない。この人はきっと歌が上手いんだろうなだったり職種だったりする。日に焼けた頰、歩き方、背中のカタチ。一緒にご飯を食べ意気投合したけれどそのときは互いに座席で座って話した。後ろ姿、歩き方、職種。入力されなかったいくつかの情報。不完全なメモリーは消去されてしまうことがある。

ウイリアム・ウィリス

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 17:22

 

「遠い崖」は文庫に成っていた。早速注文した。手に取る。思っていたよりも読みやすくするすると読める。好ましい文体。というかそもそも何をどう思っていたというのか。きっと自分以外のアーネスト・サトウに執心するあかの他人の存在を正視出来なかったのだ。

 

 

「遠い崖」第一巻の表題は「旅立ち」。今はまだ序章を読んでいる。それにしても序章が長過ぎるではないか。全360頁中100頁余を序章に費やしている。この感じ。嫌いではない。こんなのはちょっとオペラのはじまりにも似てなくもないやん。

 

 

長い序章の中で萩原はアーネスト・サトウの手なる書簡に納得するまで精通すべく英国のかのゆかりの地を訪ね歩いていた。本が書かれた頃には生存した何人かのアーネストの友人らの縁者。彼は礼節を尽くして逢い対する。

 

 

ウイリアム・ウイリス。彼の名前は岩波文庫にもすごく出てきた。アーネストの友達。若きイギリス人医師。

 

 

序章で萩原はウイリスの不遇な人生を格調高く綴っている。50代半ばで病死したウイリスの残した長い遺言書。ウイリアム・ウイリスの研究家は萩原の他にもいるにもかかわらず、彼は何故アーネスト研究の冒頭をこのような寂しげな記述ではじめたのだろうか。

 

 

そうかウイリスさん、いろいろ有ったんだね。お疲れだったね。

カンタービレ

  • 2017.12.18 Monday
  • 19:13

 

コンコーネ11番は人気の曲だと声楽教師が言う。11番。カンタービレ。カンタービレは「歌うように」。もちろんこれはすでに歌なんだけどさ。では「歌わないで歌う」とこの曲はどうなるか。声楽教師が「歌わないように」歌った。‥‥今のはねえ、数を数えるようにやったんだよ。

 

 

モンテベルディ。「Nel ciel di bellezza s'acrisschi fierrezza et manchi」。途中で1小節ずつ転調して進むところ。長調、不協和音、短調、そしてまた不協和音。2回めの不協和音は1回めよりもヤバい感じ。

 

 

歌うように。声楽教師が言う。そうだった。カンタービレ。歌うように。これは歌だった。歌を歌うようにだった。

商船

  • 2017.12.17 Sunday
  • 03:18

女中が主人公の映画をふたつ観た。「ちいさいおうち」と「またの名をグレイス」。どちらも悲しい話だった。昨日は友人と着物の話をした。なんやかんやなんやかんや。ねえ一番好きな着物ってなに?わたしが尋ねると友人は考え込んだ。友人は70代後半。丸帯がどうのこうの。話をそらした。それであなたはどんな着物が好きなのよ。わたしは答えた。長襦袢かな。正絹の長襦袢。



「ちいさいおうち」の主人公の女中は小さな女中部屋で寝泊まりしていたがわたしにはあの部屋がとても良さそうに見えた。3畳ほどの窓のない部屋だった。この部屋暑いわね。松たか子演じる奥様が無作法に言い放っていたがわたしはあの部屋はきっと落ち着くだろうなと思った。



「またの名をグレイス」の主人公は大きな御屋敷へ女中奉公へ出た時に親友のメアリーと出会った。後にも先にもあの時が彼女の人生でいちばんしあわせな時代だった。台詞で「怠惰には悪魔が宿るので」と主人公は言った。女中という仕事は本当に忙しいのだなと見入った。



わたしが17歳の頃のことだ。わたしは修道院に入りたかった。手続きを踏んで面接の様な合宿へ参加した。わたしは結局修道院へ入ることが叶わなかったけれどその合宿で出会った友人の1人が商船大学校へ入った。やがて彼は民間の大型船の乗組員として遠洋へ出る日が来てわたしは見送りに行った。その場に居合わせた何人かの人たちとの記念写真にわたしも入れてもらった。



わたしは彼のことを商船と呼んだ。商船いつ帰るの。彼はなんと答えたのかは思い出せないがそれ以来彼には会っていない。商船には眼鏡をかけた恋人がいた。彼女は家事や裁縫が得意な麗しい17歳だった。



全ては和装のため。掃除を済ませてからしか足袋を履いちゃダメって決めてるの。わたしがそう言うと70代の友人は笑った。考えておくよ。何が?一番好きな着物だよ。70代の友人がふと遠くを見る。



17歳のわたしは商船の乗った様な大きな船に乗りどこか遠くへ行きたかった。商船の恋人は商船のことをいつまでも待っていた。わたしは女中にはなれないのかもしれない。わたしには女中の心得がそもそもないのかもしれない。

遠い崖

  • 2017.12.15 Friday
  • 08:34

 

「遠い崖」は萩原延壽(はぎはらのぶとし)(1926ー2001)が書いた本で、私はこの本は図書館の棚でその外観をなんどか見たことがあった。「遠い崖」は全14巻。一冊ずつ借りようかと思った時期も有ったがそれが出来ないでいたのは何故だろう。

 

年配のそれも70代や80代の友人が私に言う。アナタは若いねえ。私も自分で自分がそれなりに若いのであろうと思っていたがじっさいはそうでもなく、神経痛などの不調に一ヶ月ほど前より酷く悩まされた。対処法が無い訳でなく文字を読むのを制限すること、休養すること。つまりは見た目より、かつまた自分で考えているより自分は劣化している。そのことを忘れないで日々を過ごすこと。

 

休養中ふと「遠い崖」のことを思い出した。どうして萩原という人はそんなにもアーネスト・サトウについて考え続けたのだろう。そんなことを何日も思った。それでもなかなか読もうという気持ちには成れなかった。分厚い本を想像するだけで頭痛がぶり返すように思われたのだ。

 

 

 

 

 

 

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